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新タブロイド紙「STAGE」特別インタビュー フェリックス・ローゼンクヴィスト編_part1
2017年8月11日
Q.日本では、まだあなたのキャリアや人柄について、よく知られてはいません。そこで最初にお伺いしますが、家族の中には誰かモータースポーツに関係していた人はいるのでしょうか?
フェリックス・ローゼンクヴィスト(以下、FR):いいや。僕の家族がみんな興味を持って取り組んでいたのは、スキーなんだ。だから、僕も3歳の頃からスキーをやっていたんだ。だけど、僕自身はクルマにとても興味があったし、父もクルマが好きだった。だから、ある時、“カートをやってみたいね”っていう話になって、僕が10歳の時にカートを買ったんだ。そこが僕のスタート地点だったけど、家族に誰もモータースポーツの経験者がいなかったから、僕らはホントにド素人で、ゼロから父とすべてを始めたんだよ。
Q.自宅の近くにカート場があったんですか?
FR:うん。30分ぐらい離れたところに、1つだけカート場があった。
Q.モータースポーツに興味を持ったきっかけは?
FR:多分、コンピュータゲームじゃないかなって思う。それ以前に、そもそもクルマに興味があったから。スピードも好きだったし、クルマの全てが好きだった。だから、レースを始めたっていう感じだね。
Q.あなたのカート時代のことは、インターネットで調べても詳しく出てこないのですが、どんな活動をしていたのでしょうか?
FR:最初の3年間は、スウェーデンの国内レベルで、小さな選手権に出ていた。その後、100ccのカートで国際大会に3年間出場したんだ。イタリアとかスペイン、フランスなんかでレースをしていたんだ。だけど、15歳の時、すごく早い段階でカートは止めて、フォーミュラカーにステップアップしたんだ。
Q.例えば、ピエール・ガスリー選手の場合、カートに使える資金が非常に限られていたということですが、あなたの場合はどうでしたか?
FR:僕も同じような境遇だった。1年間だけ、イタリア選手権にフル参戦したけど、他の年は選手権にフル参戦するっていうことができなかった。所属していたチームも、小規模なところだった。もしファクトリーチームで乗ろうと思ったら、ものすごくお金がかかるからね。とにかく僕自身が3年ほど前にプロになるまでは、常に資金の問題に苦しんだよ。
Q.15歳でシングルシーターにスイッチしたと言うことですが、カートよりもその方が資金が必要なのではないかと思います。その費用はどうやって捻出したんですか?
FR:最初の2年間、僕はアジアというか中国でシングルシーターのレースに出場していた。そこでフォーミュラ・ルノーに乗っていたんだけど、費用の面でいうと、国際レベルのカート選手権に出るよりも安かったんだよ。それがアジアで走った大きな理由なんだ。多くの距離を走ることもできるしね。そのレースのために2008年は1年間、上海にも住んだんだ。だけど、当時は他に選択肢がなかったし、いい決断だったと思う。大きなスポンサーを持っているわけでもなかったし、資金が潤沢にあったわけでもないからね。それに2008年にはタイトルを獲ることもできたから。
Q.当時のあなたはスウェーデンに住んでいて、アジアというのは未知の場所だったでしょうし、ヨーロッパからは極めて遠いですよね。一体どうやって、アジアの選手権のことを知ったのでしょうか?
FR:カート時代の友人が、アジアで幾つかのレースに出場して、彼が僕にアドバイスをくれたんだ。同時に何人かのチームオーナーの連絡先を教えてくれた。僕が所属したチームのオーナーは、以前プレマパワーのマネージャーをしていた人物だったから、そこでプレマパワーとの関係も始まったんだよ。でも、アジアに行ったのは、とても面白い経験だった。僕はものすごく若かったし、アジアは自分の家からは遠く離れている。もちろん友達や家族とは長期間会えなくなる。だけど、僕にとってはとてもいい学びの場だった。今みたいにプロのドライバーになったら、色々なところを旅して回らなくちゃならないし、空港やホテルでひとりぼっちの時間をたくさん過ごすことになる。そういうトレーニングは、早目にやっておいた方がいいと思うんだ。もっと年齢を重ねてからだと、ショックを受けたりするんじゃないかって思う。
Q.上海に1年住んでいたということですが、それは最初の年ですか?
FR:いやいや。最初の年はヨーロッパから通っていて、2年目に上海に住んだ。
Q.実際に上海に住んでみて、カルチャーショックを受けましたか?
FR:住む前に上海や香港には行ったことがあったから、どんな所なのか多少は想像できたけど、ひとりぼっちでその場所に住んで、生活するっていう場合はちょっと違っているよね。人々とコミュニケーションを取ったり、お互いを理解をするのがすごく難しかった。でも、その後、上海で中国人とスウェーデン人、2人のいい友人と巡り合って、彼らから学んだことも多いし、彼らが多少僕の面倒を見てくれた。一旦、誰かと知り合いになったら、色々なことがうんと容易になったよ。
Q.アジアで2年間レースをした後は、ヨーロッパに戻りましたよね? ドイツF3でしたっけ?
FR:いや。その前に2009年は1年間、スウェーデン/ノルウェーのフォーミュラ・ルノーに出場して、そこでタイトルを獲得した。その年は、日本で走ることを想定していたんだけどね。日産からフォーミュラ・チャレンジ・ジャパンに出ないかっていう話があったんだけど、その時に金融危機が来て、最後の最後で話が立ち消えになったんだ。僕には何も乗るものが無くなっちゃったんだ。だから、プランBとして、スウェーデンに帰って走ることにしたんだよ。
Q.その翌年、ドイツF3に出場することになった経緯はどういうものだったんでしょう?
FR:僕が所属したのは“パフォーマンス・レーシング”というスウェーデンのチームで、オーナーのボビーと連絡を取ったんだ。今では、彼はいい友人のひとりだよ。そのボビーと一緒にスポンサーを一生懸命探した。それまでの年と比べて、国際レベルのF3に出場するためには、うんと多くの資金が必要だったからね。で、何とかパッケージを作ることができたんだけど、そこでも多くのことを学べた。たくさんテストもできたし、そんなのは初めての経験だった。それ以前は、ほとんどテストなんかできない状況だったから。それに、ケビン・マグヌッセンやトム・ディールマン、マルコ・ソレンセンといったいいドライバーが揃っていて、とてもレベルの高い1年だったと思う。そこで僕はシリーズ5位だった。常にスタートに問題を抱えていたから。いつもスタートでストールしていたんだよ(苦笑)。6回ぐらい失敗していると思うよ。それがなければ、いつも表彰台に上がれたと思うんだけどね。でも、いい1年だった。それに、その年は初めてマカオにも出たんだ。
Q.その翌年からは、ミュッケ・モータースポーツに加入して、ユーロF3に出場を開始しますが、そこでシートを得た経緯は?
FR:それはマカオで好結果を出したから。マカオにはパフォーマンス・レーシングと一緒に行ったけど、チームにとっても僕にとっても初めてのマカオで、9位という成績を出した。それでミュッケと連絡を取るようになって、彼らはとてもいい取引を申し出てくれた。
Q.その時点から、資金を持ち込まなくて良くなったということですか?
FR:いや、全額じゃないけど、まだ多額の資金を持ち込まなければならなかった。だから、僕はたくさんのスポンサーを探さなくてはならなかったんだ。その状況は2014年まで続いたよ。
Q.でも、あなたはユーロF3でもいいパフォーマンスを示していましたよね? そういう場合、F1のチームやスポンサーに見いだされて、サポートを受けるということもあると思います。なぜ、あなたはそういうプログラムに選ばれなかったんでしょうね?
FR:もともと僕には資金が不足していたっていうことがあるかも知れないね。ヨーロッパでは、常に多くの資金を持ち込むことが要求されるから。フォーミュラカーの場合、タダで乗せてもらえるなんてことは滅多にないんだ。それから、僕は自分がDTMに乗れるっていうことを信じ過ぎていたのかも知れない。毎年、僕は“(DTMに乗る)チャンスがある”って言われ続けていたんだ。だけど、実際にはそんなこと起こらなくて、次の年も、また次の年も同じっていう状況が続いた。その代わりに、他のドライバーがDTMでシートを得るっていうことが続いたんだよ。時間だけが過ぎて行って、僕は長い間F3に留まることになってしまった。そして、2014年のマカオで勝った後、僕は自分自身に「お前はもうF3をストップしなくちゃいけない」って言った。自分自身のために、他のことをしなくちゃならないって思ったからだ。だけど、プレマパワーのレネ(・プレマ)が電話してきて、「ウチのチームで走らないか」って。僕はプレマが4年連続チャンピオンを獲っているトップチームだと分かっていたし、マカオで勝ったとは言うものの、自分自身にそれほど選択肢があったわけでもないから、ブレマで走る機会を選んだんだ。その結果、チャンピオンを獲得することもできたし、自分にとっていいターニングポイントになったと思う。僕は何年もF3をやってきていたけど、それもタイトルを獲るために、またマカオで2回目の勝利を掴むのにいい助けになったよ。あの年はスーパーな1年だったし、それがきっかけでF3を卒業することもできたんだ。
Q.F3をやっている途中で、F1チームからは全く声がかからなかったんですか?
FR:僕はF3時代、メルセデスと長い間ともに過ごしてきた。彼らには、F3、F1、そしてDTMというプログラムがある。その中で、僕にとって主要なプログラムは、DTMに行くことだった。僕はリザーブドライバーだったから、去年何戦か出たけどね。でも、F1については、その他のチームとしか話をしたことはない。去年、僕はできるだけ色々なレースをしようって決めて、10種類ぐらいのクルマに乗ったんだ。そこから、人々は以前より僕に注目するようになったと思う。それまで多くの人は、僕のことを“F3のベテラン”とか、そういう風に思っていたんだ。僕には他のクルマは運転できないんじゃないかって思っていたみたいだよ。だけど、僕は去年、そして今年、自分が他のどんな種類のクルマに乗っても結果を出せるっていうことを証明した。それも大きなターニングポイントだったし、F1に関しても真剣な話が舞い込んできた。まぁ、最終的には実現しなくて、テストもできなかったんだけど。F1に関しては、非常に難しい世界だし、現実的にならないといけないよね。いくらテストで速くても、レースシートを得るのはものすごく大変だから。
Q.F1に行くための充分なチャンスを得るのが難しいと、気付かされたのはいつでしたか?
FR:去年が、多分一番F1に近づいた年だったと思う。現実的なチャンスがあったから。でも、まだ分からないよ。今年、何かが起こるかも知れないし。モータースポーツの世界では、毎年色々なことが変わるし、政治や多額の資金もそこには含まれている。時には、それが自分に利益をもたらしてくれることもある。知り合いの誰かが、チームに変革をもたらすっていう可能性もあるし、僕はまだチャンスがあるって思っているんだ。僕はまだそれほど歳を取っているっていうわけじゃないし、今自分のドライビングもピークにあると思うからね。だから、まだ諦めてはいないんだ。
Q.ということは、今でも最終目標はF1なんですか?
FR:うん。
Q.メルセデスから将来的なDTMの話を持ちかけられていた数年の間に、あなたよりも若いエステバン・オコンがF3でタイトルを獲って、先にDTMに乗ったりもしていますが、当時フラストレーションは感じませんでしたか?
FR:うん。少し感じていたよ。パスカル・ウェーレインとかエステバン・オコン、ルーカス・アワー、みんなが僕を追い越して行ったから。同じレースで走っていた連中が、みんな僕よりも先に行ってしまって、僕は何年もF3に留まらなくちゃならなかったんだから、ものすごく欲求不満が溜まったよ。エステバンの場合は、特別だったと思う。彼はデビューイヤーにGP3とF3の両方でタイトルを獲ったし、本当にF1にふさわしいと思うよ。だけど、その他のドライバーより僕がダメということはなかったし、同程度のパフォーマンスを見せていても、全く違う理由でチャンスを得られないっていうことには、フラストレーションを感じていた。でも、その一方で、僕は他の多くのドライバーよりもいいチャンスを得ているんじゃないかとも思うんだ。全く何のチャンスを得られないドライバーだっているわけだから。その点、僕は色々なチャンスに恵まれているから、ハッピーだとも思っているよ。
Q.ユーロF3は、DTMのサポートレースとして行われてきて、多くのDTMレースを見てきたと思いますが、あのレースに出たかったんでしょうか?
FR:うん。DTMドライバーになるのは、僕の長年の夢だったよ。現実的な目標として、プロフェッショナル・ドライバーになるためには、メーカーと契約するしかない。それまで長年、スポンサーを見つける努力を続けて、その資金を持ち込んでレースをしてきたんだから、自分のためにもプロとして走れるのはいいことだ。もちろん、時々は政治に翻弄されて、楽しめない時もあるけどね。マニュファクチャラーの関わっているレースには、多くの政治が絡んでくるから。だけど、その点で、僕はフォーミュラEに対してハッピーに思っているんだ。全員イコールで、とてもいいレースだと思う。一番いいドライバーが勝つっていうね。僕は、自分にとって最も正しい選手権を見つけたって思っているよ。