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新タブロイド紙「STAGE」特別インタビュー  ピエール・ガスリー編_part1

2017年5月10日

Q.あなたは9歳でレースを始めて、今21歳。わずか10年余りでF1に手が届こうかというトップレベルに達しています。カートを始めてどれぐらいで、自分の才能に気づきましたか?

ピエール・ガスリー(以下、PG):13歳でKF3という名前のジュニアカテゴリーのシリーズに出場した初年度、僕は初めてのワールドカップに出て3位になったんだ。それが国際レベルの大会に出た初めての経験だったにも関わらず。僕は両親のサポートを受けてカートをしていたけど、それほど予算がなかったんだよね。ライバルたちと比べて、カートにかけられる資金が少なかった。それでも何とかワールドカップで3位になったんだ。その結果を受けて、フランスのモータースポーツ連盟(FFSA)が僕をジュニア・プログラムのメンバーとして選んでくれたことに感謝しているよ。そこからヤング・ジュニアドライバーズとして、フランスのナショナルチームに加入した。その時から、自分には才能があるんじゃないかなって思い始めた。もちろん、それよりも前から「将来はF1ドライバーになりたい」とは思っていたけど、自分にそうなれるだけの力があるかどうかは分からなかったからね。もちろん子供の頃から、自分のドライビングがより良くなるように努力してきたし、練習もできるだけしてきた。持っているだけの予算の中でね。そして、ワールドカップで3位になった時、「きっと上手く行く」って思ったし、あれが僕のキャリアの中での最初のターニングポイントだった。

Q.あなたの両親の仕事は何ですか? お父さんは、セミプロとしてレースをしていたと言っていましたが、他にも仕事をしているんですよね?

PG:そうなんだ。父はセミプロとして耐久レースやラリーに出ていた。国内レベルの大会にね。でも、もちろんそれは仕事じゃなくて、真剣に取り組んでいる趣味っていう感じだった。仕事としては、かつてはテキスタイルの会社を持っていたんだ。その会社は2002年か2003年に畳んでしまった。現在の父が何をしているかって言われたら、説明が難しいんだけど、経営者たちに対して経済的戦略を指南するような組織に属している。それと同時に、貧しくて家が買えないような人たちに供給するビルを建設する慈善事業にも携わっているよ。でも、そういう慈善事業に関しては、フランスでは利益を上げてはいけないことになっている。だから、父はすごく忙しいんだけど、余りお金にならないことをしているんだ。ただ、それとは別に、父は母とともにインテリア・コーディネートの会社を運営している。椅子のカバーやテーブルクロスなんかを扱っているし、夏の間には若い人たちを対象にしたイベントなんかも行っているよ。結婚したら、家の中を飾るために、そうしたものがより必要になるからね。

Q.会社経営をしているなら、あなたはある種、とても裕福な家庭で育ったということですか? それとも普通の家庭環境だった?

PG:普通の家庭だったよ。それに関して不平を言うつもりはない。だけど、カート時代は大変だった。ある時期は両親の会社が上手く行かなくて、税金の支払いが難しかった時もあるし、僕が12歳か13歳の時には、大問題を抱えていた。その後少しは良くなったけど、またここ2~3年は両親の会社が大変そうだ。

Q.それでもあなたのカートの資金は惜しまなかったんですか?

PG:そうだね。両親は、いつも持っているだけのお金を僕のカートに注ぎ込んでくれた。だけど、4輪レースにステップアップしてからは、かかる金額が大き過ぎて、とても僕の両親には出せなかった。その点、幸運なことに、僕には4人の兄がいて、彼らの経験からモータースポーツにはとてつもなくお金がかかるっていうことが最初から分かっていたんだよね。だから、両親はすぐにスポンサー探しを始めて、上手くスポンサーを見つけることができた。もしスポンサーがなければ4輪レースをやるのは不可能だったよ。

Q.かつてロイック・デュバル選手から聞いたんですが、彼も普通の家庭の出なので、カートのレースに行った時に、ホテル代を出す余裕がなくて、カートを積んだトラックの中で寝たことがあると言っていました。あなたもそういう経験があるのでしょうか?

PG:僕の祖父母がキャンピングカーを持っていたから、ホテル代を節約するために、そのクルマの中で寝たりしていたよ。それに、両親と一緒にホテルに泊まるとしても「フォーミュラ1」っていう一番安い宿に泊まっていた。カートを運ぶのにも、母の会社のトラックを使って、そこにすべてを積み込んでいたし、メカニック仕事をはじめとする作業は、すべて父がやってくれた。国際レベルの大会に出場するようになってからも、僕は“ソディカート”に乗っていた。彼らといい関係を持っていたというのもあるけど、一番安い値段でカートを提供してくれるって申し出てくれたからなんだ。他のチームの人たちが使っている“トニ・カート”とか、別のシャシーは使えなかったんだよ。それを使っている他チームで乗ろうと思ったら、年間200,000ユーロもかかるっていうんだから、そんなの不可能だった。僕は25,000ユーロで1年間をやりくりしたんだよ。つまり他のドライバーの8分の1の予算しかなかったっていうことなんだ。たくさんお金を使っているドライバーたちは、毎日カートに乗って練習できていたよね。だけど、僕にはそれはできなかった。

Q.そういうお金持ちのカーターたちは、毎レース新しいエンジン、新しいシャシーを使っていたでしょうし、タイヤだってニュータイヤをたくさん使えたでしょうね? それと比べたら、あなたが買えるものは限られていたということですよね?

PG:それは4輪レースに上がってからも同じだったよ。F4を始めた時も、とてもお金がかかるから、それほど多く練習を積むことができなかった。もちろんカートの時も同様だったから、僕は毎周、最上の走りをしなければならなかった。自分こそが最高なんだと証明したいけど、他のカーターより練習時間が少ないから、より短い時間でコースに対しても何に対しても順応しなければならなかったんだ。当時は、それがすごく大変だったよ。だけど、そういう訓練が今、役立っている。新しい環境やコース、どんなところに行っても、素早く順応することができるようになったから。もちろんカートをやっている頃は、「僕もみんなと同じようにもっと練習したいな、彼らがテストしているのと同じだけテストしたいな」って思っていた。子供の頃って言うのは、練習することによってどんどん成長するものだし、そこで大きな差がつくからね。だけど、僕は両親ができる限りのことをしてくれているって分かっていたし、さっきも言ったように彼らは経済的な問題を抱えていた。それでも、彼らは僕がカートをやりたいっていうことを分かってくれて、できるだけのことをしてくれたし、何とか解決方法を見出してくれた。例えば、僕の母は自分の会社での仕事が終わって、午後9時に帰宅してから、朝の4時までスポンサーを見つけようと努力してくれた。そういう風に、僕が活動を続けられるように、両親ができるだけのことをしてくれたっていうことを僕は分かっていた。

Q.そこまでする両親の姿を見て、「分かったよ、僕はもう諦める」って言ったことはないんですか?

PG:いや。両親がやってくれたことこそが、僕を強くしたと思っているし、僕の性格や精神的なものを培ってくれた。両親には色々問題もあったけど、僕は彼らに決して諦めて欲しくなかった。彼らには何度も「よし、もう会社を畳もう」、「何かを諦めよう」ってなってもおかしくない場面があったんだよ。だけど、僕の両親はいつも自分たちの問題に対して、必死で戦っていた。だから、僕も同じ精神を身に付けたんだ。例え、外部の何かしらが僕の目標をブロックしようとしても、僕の気持ちは誰にも止められない。自分たちが抱えてきた問題が、そういう風に充分に僕を強くした。自分が誰か分かっているし、どうなりたいかも分かっているし、人生をどう送りたいかもハッキリしているからね。だから、その中で問題を抱えたとしても、それは目標を達成するための一部だし、そういうこととも付き合わなければならない。どうやって付き合っていくか。僕の両親は多くの問題を抱えていたけど、常にそれと戦っていた。今でも、彼らはそうした問題と戦う能力がある。もちろんツラい時もあるよ。だけど、ずっと戦い続けていれば、大抵の場合は自分が望むような結果が得られるものさ。ただ、そのための努力を怠らないことが大切なんだ。何かを成し遂げるためには、そういうことが必要なんだ。

Q.そういう問題があったことで、逆に自分の目標がよりクリアになったということもありますか?

PG:そうだね。両親が常に僕を助けてくれているって分かっていたし、彼らがしてくれたことをありがたいと思っているよ。僕は自分自身のためにも勝ちたいと思ってきて、競技者になった。だけど、両親のためにも、勝つことがいいプレゼントになると思っている。それだけのことを彼らはしてくれたんだからね。今後も、僕が成功することは、両親にとっていいプレゼントになると思っているよ。

Q.カートからF4にかけて、資金的に厳しい時期だったということですが、フォーミュラ・ルノー2.0に上がってからは、大きなスポンサーが見つかったのでしょうか?

PG:フォーミュラ・ルノー2.0の初年度は、FFSAが僕をサポートしてくれた。初年度の資金を提供してくれるスポンサーも見つかったよ。両親も資金を提供してくれたしね。それに、レッドブルとも最初の契約を結んだんだ。それはオプション契約みたいなもので、資金的な援助があったわけではないんだけど。それよりもフォーミュラ・ルノー2.0では、2年目のシーズンが大変だったんだ。なぜかっていうと、初年度を終えた時に、レッドブルが「君は速いけどミスが多過ぎる」って。「君を僕らのジュニア・プログラムに選ぶことはできない」って伝えてきた。まるで悪夢のようだったよ。僕にはレッドブルとの契約が、自分の人生にとって大きなチャンスだって分かっていたからね。「もしレッドブルジュニアのメンバーになれば、資金的にも支援を受けられるだろうし、F1プログラムにも加われる」って真剣に考え始めていたから。そうすれば、もう少しレース活動をするのがラクになるなって。だけど、そうはならなかった。それを告げられた時は、すごくツラくて、自分の部屋でワンワン泣いたよ。だけど、その経験がさらに僕を強くしたんだ。もちろん2年目のシーズンも、より安い予算で続けられるチームを探して、フランスのテック1チームから出走することになった。チームもすごく資金的な面で努力してくれたし、僕らの方も1年間資金を提供したいっていうスイス人のスポンサーと出会った。その人がまずシーズン前半の分を前払いしてくれて、僕らは好成績を残したんだ。シーズンの真ん中までにチャンピオンシップをリードしていた。だけど、その頃になったら、そのスイス人はなしのつぶてで、シーズン後半のスポンサーフィーも払ってもらえなくなってしまった。僕らは、シーズンの後半分としてチームに払う資金がなくなってしまったんだよ。でも、チームは「君たちに支払能力がないのは分かっているけど、ピエールは選手権をリードしている。だから、チームとしては続けたいし、最後まで戦おうじゃないか。何とか資金を得られるように、何か解決方法を見出そう」って。本当にいいチームだった。僕と同じような状況に陥るドライバーは多いけど、大抵のチームは「支払えないなら、もう乗せない」って言うよ。だけど、テック1は「僕らはピエールを乗せたい。何とか解決策を探そう」って言ってくれて、僕はチャンピオンを獲得することができたんだ。その後、チームに資金を払い戻すこともできた。実はその1年前、レッドブルが僕を選択しないってなった時に、FFSAのボスがヘルムート・マルコに「君は大変な間違いを犯したね。ピエールには才能があるし、来年彼がシーズンに戻ってきたら、ユーロシリーズのチャンピオンになる」、「そうなったら、間違いなく君はピエールをジュニア・プログラムに抜擢したくなるはずだ」って言っていたんだって。だから、チャンピオンを獲った後、FFSAの会長と一緒にアブダビのF1最終戦にヘルムート・マルコに会いに行った。そして、FFSAの会長が「見たかい? 僕は1年前、ピエールがチャンピオンになるって言っただろう? その言葉通り、彼はタイトルを獲ったんだけど、彼をレッドブル・ジュニア・プログラムのメンバーにすることに興味はないかな?」って。それで僕はレッドブルとの契約にサインすることになって、資金的な援助も受けられるようになったんだ。それと同時に、僕ら自身で見つけたスポンサーがあって、そのスポンサーの資金をテック1に支払った。翌年になってようやくシーズン後半の分の支払いをすることができたんだよ。でも、ホントにそれまではメチャクチャだった。僕は“お金がない、お金がない”っていつも思っていて、翌年のことなんか考えられなかったんだ。その年、その年のレースに集中するしかなかった。みんなが「ピエール、来年は何をするの?」って聞いてくるけど、「そんなの分からないよ。もし僕がいいパフォーマンスを見せたら、ジュニア・プログラムに入れるかも知れないし、スポンサーが見つかるかも知れないけど」っていう感じだった。カートの時から、その1年のことだけ考えるのに慣れていたんだ。次の年に何が起こるかなんて、全く分からなかったから、難しかったよ。レッドブル・ジュニアに選ばれた後は、別のプレッシャーがあったけどね。もちろん資金的な援助は受けられるけど、毎日のようにプレッシャーが圧し掛かった。コースの中でも外でも、上手くやることを求められるし、常に忙しい。そういう別の種類のプレッシャーがあるんだ。だけど、ジュニア・プログラムに入ってからは、少なくともそれまでと比べたらいい気分で過ごすことができたよ。

Q.フォーミュラ・ルノー2.0のユーロシリーズでチャンピオンを獲って、再びレッドブルと契約したところで、自分は将来プロのレーシングドライバーになれるって思いましたか?

PG:もちろん、それ以前からプロのドライバーになれるだろうし、チャンスさえあればF1ドライバーにれるだろうって思っていたよ。毎年結果を出して行くことで、それに近づいていくっていうことも分かっていた。結果を出せば、次の年により良いオファーをもらえるし、いいチームから声が掛かる。それを続けて行けば道は開けるけど、とにかく速さを見せることが何よりも重要だ。だから、僕は常に勝たなくちゃ、結果を出さなくちゃってやってきた。レースを続けるために、自分に何ができるかを示さなければならなかった。僕は自分がF1ドライバーになれるだろうって思っていたからこそ、F4を始めたんだけど、それはちょっと早過ぎたかも知れないね。ただ、レッドブルに加入してからは、より将来がクリアになった。レッドブル・ジュニアの一員になるっていうことは、いい仕事をすればトロ・ロッソかレッドブルでF1ドライバーになれる可能性が高まるっていうことだからね。僕にとって、最初のターゲットはプログラムの一員になることだった。僕には、他のドライバーがF1のシートを得るために支払っている500万ユーロとか1000万ユーロといった資金はないからね。だから、僕はジュニア・プログラムに入るために、いい成績が必要だった。レッドブルとの契約をかわした時は、本当にハッピーだったよ。もちろん、契約した後も、F1に行くためにはずっと速さを見せなくちゃいけないし、成績を出し続けなくちゃらないんだけどね。

Q.レッドブルと再契約して、フォーミュラ・ルノー3.5リッターV8やGP2を戦った3年間は、何も大変なことはなかったんですか?

PG:フォーミュラ・ルノー3.5リッターの時は、不思議なことにみんな僕が余り勝てなかったっていうことばかり憶えているんだよね。だけど、アーデンから出走していた僕は、他のドライバーと比べて、最も多く表彰台に立っているし、シリーズ2位で1年を終えた。初年度の成績としてはストフェル・バンドーンやジュール・ビアンキとほぼ同じぐらいだったと思うし、悪くなかったと思う。僕にとってはポジティブな結果だったよ。2位が8回あったっていうのは、確かにフラストレーションだったよ。優勝と2位では大きな違いがあるし、僕は勝ちたかった。だけど、僕はまだ若かったし、学ばなければならないことが多かった。それに、DAMSから出場していたカルロス(サインツ)がすごく速くて強かったからね。僕らには勝つための何かが欠けていた。それは確かだ。2位とか3位のトロフィーは家にいっぱいあるんだけど、優勝のトロフィーだけがないんだよ。それでも、自分自身を進歩させることができたし、初年度としては良かったと思うんだ。もちろんカルロスを倒したいと思っていたけど、彼は2年目で僕よりも経験があったからね。それに、僕はフォーミュラ・ルノー2.0からのステップアップだったけど、カルロスはGP3から上がってきていて、すでにF3で1年、GP3で1年、それに加えて3.5リッターのレースにも何戦か出ていた。そういう意味では、僕よりもうんと経験があったし、彼が所属していたのは前年にマグヌッセンがタイトルを獲得したチャンピオンチームのDAMSだから、倒すのは難しかった。僕は2.0から上がってきたばかりで、それまで大排気量のフォーミュラ経験がなかったからね。

 

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