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チャンピオンズ・ストーリー Story 7: リチャード・ライアン(2004年)

2020年7月6日

「誰も僕が一番速いって知らないだろうけど、僕は誰よりも速い。ただ、僕はこれまで”ミスター・ノーバディ”だっただけだよ」。
2002年、フォーミュラ・ニッポンのシーズン途中に行われた美祢サーキット(現在はマツダのテストコース)での合同テストに現れたリチャード・ライアンは、真顔でそう言った。
1979年8月8日生まれのリチャードは4人兄弟の三男坊。実家は小麦や大麦などを作っている農家だった。父の長年の趣味がレーシングカートだったため、子供の頃からともにカート場へと通い、腕を磨いた。それでも、当時は「僕は大きくなったら農場の仕事をするんだろう」と考えていたそうだ。しかし、9歳でレースデビューし、速さに磨きがかかってくると、自分の才能に気づく。次第にレーシングドライバーになることを夢見るようになっていった。そして、16歳になると、フォーミュラ・フォードで4輪レースにステップアップ。翌年にはフォーミュラ・ボグゾール・ジュニアやフォーミュラ・パーマー・アウディなどに参戦し、好成績を挙げる。だが、ジュニアフォーミュラでいくら活躍しても、ヨーロッパで階段を上がって行くことはできなかった。2000年には、スポーツレーシングワールドカップ、フォーミュラ・ルノーに出場したものの、それはスポット参戦。フルシーズン戦うための予算もチャンスもリチャードにはなかったからだ。このままではF3すら戦うことなく、キャリアを終えなければならないかも知れない。リチャードは崖っぷちに立たされていたと言っても過言ではないだろう。
そのライアンをバックアップしたのが、アイルランド出身の元F1ドライバーであるデビッド・ケネディ。ケネディ自身、マツダスピードのドライバーとして、ル・マン24時間レースに8回も参加しているだけでなく、全日本ツーリングカー選手権や全日本スポーツプロトタイプカー選手権にも参戦し、日本のレース界との繋がりは深い。また、引退後にはドライバーのマネージメントも行なっており、一足早く来日したラルフ・ファーマンの面倒も見ていた。ライアンのマネージャーとなったケネディが、ファーマンが移籍した後、ノバ・エンジニアリングに彼を紹介した。

こうして2001年、一気にトップフォーミュラのシートを得たライアンだったが、初年度にドライブしたのは、GフォースGF03C。前年に引き続いて他チームはより戦闘力の高いレイナードを使用しており、輸入代理店のノバ・エンジニアリングだけがGフォースを使用する状況だった。しかも、チームメイトだったアンドレ・クートは、シーズン途中になってマシンをレイナードにスイッチ。ライアンは孤独な戦いを続けることとなった。だが、経験不足もあり、結局この年は1ポイントも獲得できず、シーズンを終えることとなる。しかも、翌年はシート喪失という憂き目にあってしまった。
失意の中にいたライアン。その彼にシーズン開幕後になって声をかけたのが、ダンディライアン。この年、ダンディライアンはフランスの若手であるジョナサン・コシェを起用したが、コシェはわずか2戦を走った所でチームを離脱。その代わりとして、ライアンは急遽美祢でのテストに招聘されたのだ。このテストで初めてレイナードのステアリングを握り、チームを納得させる走りを見せたライアンは、第3戦からシリーズに復帰。その年の菅生では、自身初の表彰台を獲得する。
翌2003年は、シリーズ全体がシャシーをローラにスイッチ。完全なワンメイクとなる。ライアンは、前年の走りを評価される形でダンディライアンに残留。また、同チームは、この年初めて2台体制を構築し、服部尚貴も迎え入れた。2台体制となり、データ量も増えたことで、チームとしても強さを増して行く。ライアンのためには、イギリス人エンジニア、ロブ・アーノットも迎え入れた。その結果、第5戦鈴鹿でライアンは初優勝。同年、チャンピオンを獲得したのは本山哲だが、ライアンは「僕は本山よりも速い」とすでに確固たる自信を持っていた。この年から、全日本GT選手権でニスモに加入し、本山とコンビを組んでいたライアン。最も身近なライバルが本山だった。

迎えた2004年。この年は、富士スピードウェイが改修工事中ということで使用できず、鈴鹿、もてぎ、菅生、美祢の国内4サーキットに加え、マレーシア・セパンサーキットでの1戦が組み込まれた。富士がないという意味では、変則的なシーズンとなったが、最後まで誰がタイトルを獲得するか、全く分からない大接戦となった。中でも激しい争いとなったのは、ライアンとアンドレ・ロッテラー、井出有治の3人。ライアンはシーズン前半の第2戦菅生、第4戦鈴鹿を制したものの、取りこぼしもあり、最終戦を迎えた段階でランキング2位。4ポイント差でランキングトップに立っていたのはロッテラー。ライアンを3ポイント差で追いかけてきていたのが井出だった。運命の最終戦。予選でPPを獲得したのはライアン。ライバルのロッテラーは8番手、井出は9番手と予選で後方に沈んだ。これでライアンはタイトル獲得に王手をかけたかに見えた。決勝レースでも、ライアンはスタートでトップを死守。そのまま走り切れば、チャンピオンだ。最大のライバル、ロッテラーはペースが上がらない。だが、井出のチームメイトだったブノワ・トレルイエが行く手を阻む。トレルイエは、前半こそライアンに続く2番手を走行。だが、ライアンと同時ピットインすると、先にピット作業を終わらせ、ライアンの鼻先に滑り込んだ。また井出は燃費の良さとタイヤに優しい走りでピットインを遅らせると、後半に入って猛チャージ。対するライアンは後半ペースが鈍っていた。そのライアンを井出が捉えて2番手浮上。ここでインパルがチームオーダーを出せば、井出がタイトルを獲得するという場面が生まれた。だが、ドライバーの気持ちを一番理解している星野一義監督は両ドライバーのエンジニアに”このままでいいな”と確認を取り、最後までオーダーを発令しない。そのまま最初にチェッカーを受けたのはトレルイエ。井出が2位。ライアンは3位表彰台を獲得した。結果、ライアンはロッテラーと同ポイントながら、最終戦をより上位で終えたことによりタイトルを獲得する。ロッテラーとは勝利数も、他の上位入賞回数も、全てが同じだった。一方、井出は1ポイント差に泣いた。まさに号泣だった。

こうしてタイトルを獲得したライアンは、翌年もダンディライアンに残留したが、目標はもちろんF1。その道を探るべくA1GPなどにも参戦している。しかし、F1の夢は残念ながら叶わず、彼は日本をステージに、活躍を続けている。

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