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チャンピオンズ・ストーリー Story 2: ペドロ・デ・ラ・ロサ(1997年)
2020年4月30日
昨年のスーパーフォーミュラ選手権、緊迫するタイトル争いの中、最終戦の予選で鮮やかなPPを獲得したのは、スペイン人のアレックス・パロウだった。決勝では、残念ながらトラブルに見舞われ、タイトル獲得こそならなかったが、ルーキーの彼が残した印象は強烈なものだったと言っていいだろう。そのパロウが生まれた1997年、スーパーフォーミュラの前身、フォーミュラ・ニッポンでチャンピオンタイトルを獲得したのが、パロウと同じスペイン人のペドロ・デ・ラ・ロサだった。これまでシリーズタイトルを獲得した唯一のスペイン人でもある。
1971年生まれのデ・ラ・ロサが全日本F3に参戦するため初来日したのは、1995年のこと。すでに24歳となっていたが、レースキャリアはわずかに8年目。ペドロは少年時代からラジコンカーの選手権で好成績を挙げていたが、自らがカートレースを始めたのは17歳の時だった。そこからジュニアフォーミュラで次々にタイトルを獲得してステップアップ。1993年にはイギリスF3に参戦を開始したが、成績はなかなか振るわず。そのペドロに声をかけたのがトムス。それまで自社製シャシーを使用していたトムスがダラーラにスイッチするタイミングでペドロは日本へとやってきた。当時、エンジニアを務めた山田淳氏によると「ペドロはとにかく真面目。走行前後のミーティングを大事にするし、走りに対する解析能力も高かった。その頃、日本ではデータロガーが出始めたところで、その点ではヨーロッパの方が進んでいたから、ペドロに見方を教えてもらったりしたこともあったし、とにかく本人がロガーとにらめっこしていた」という。その前年、全日本F3タイトルを取ったミハエル・クルムが天性の速さで勝負していたのに対し、「ペドロは努力を積み重ねていくタイプのドライバーだった」。とは言うものの、全日本F3では全10戦中(1戦は悪天候で中止)8勝をマークする圧倒的な強さでチャンピオンを獲得。翌年、フォーミュラ・ニッポンにステップアップを果たした。
フォーミュラ・ニッポンで所属したのは、シオノギ・チーム・ノバ。初年度のチームメイトはドイツF3チャンピオンを獲得して来日した、アルゼンチン人のノルベルト・フォンタナだった。この年は、フォンタナがチームの中でもナンバー1扱い。ラルフ・シューマッハに対抗できる存在として、活躍が期待された。実際、フォンタナは第3戦富士で優勝を果たしている。対するペドロは、「ノルベルトが作ったいいセットアップを上手く乗りこなせていなかったし、運も良くなかった」と当時の加藤博エンジニアが言うように、なかなか表彰台に立てない。ようやく初表彰台を獲得したのは、大荒れの展開となったその年の最終戦だった。
だが、2年目を迎えると、ペドロは一気に飛躍する。最初の年、常に「ノルベルトと全く同じセットにしてくれ」と言い、フォンタナとの走りの違いを研究し続けた結果、そのクルマを自分の物にしたのだ。サーキットに入って、最初のフリー走行を走った後には、「ほとんどセットアップをいじることはなかった」と加藤エンジニアが振り返るように、自らの力でタイムをひねり出し、決勝でも強さを見せる。そして、開幕2連勝を含む6勝をマーク。シーズン途中には早くもタイトルを決め、F1へと旅立つ。F1では優勝こそなかったが、レギュラードライバーとしてだけでなく、テストドライバーや開発ドライバーなどの仕事も長く務めた。それは、ひとえにペドロの仕事に対する真面目さや誠実さから成し遂げられたものだ。