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チャンピオンズ・ストーリー Story 6: ラルフ・ファーマン(2002年)

2020年6月18日

「とにかく”デカい”というのが第一印象」と、国内で所属したチーム関係者が全員が口を揃えるのが、2002年にフォーミュラ・ニッポンの王座を獲得したラルフ・ファーマン。パドックでは、いつも微笑をたたえ、口調も穏やか。通訳の人物によると”まるで王室の人のような英語を話す”。休日には一家で狩りを楽しむなど、まさに英国紳士といった人物だ。
そのラルフ・ファーマンは、実家がシャシーコンストラクターのバンディーメン。フォーミュラ・フォードのシャシーなどを制作していた。父・ラルフ・シニアは、当然のことながらレース界で知られた存在であり、息子のラルフ・ジュニアにもF1ドライバーになるべく、子供の頃から英才教育を施した。その期待に応えるように、ラルフは10歳でカートレースデビューすると、その後、イギリスの国内選手権でタイトルを次々に獲得。18歳になるかならないかと言う所で、4輪レースへとステップアップを果たした。そこから1995年にはイギリスF3に参戦を開始。ルーキーイヤーにシリーズランキング2位となり、翌年にはチャンピオンを獲得した。さらに、マカオGPでも優勝と、F1ドライバーになるために必要と言われた勲章を一つずつ手に入れていった。だが、その後、ラルフはヨーロッパで走るのではなく、進路を東に取る。

1997年に来日し、赤池卓率いるTMSからフォーミュラ・ニッポンとスーパーGTに参戦を開始したのだ。当時、TMSの工場長を務めていた吉田則光氏によると、「ラルフのお父さんと赤池さんが友人同士だったから、日本に来ることになったんだと思うんですよね」ということだ。当時のラルフは、20代前半にしては大人びていた。だが、やはりF3からビッグフォーミュラにステップアップしたばかり。日本のサーキットのグリップの高い路面やタイヤを使いこなすには、さらに体力が必要だった。「お父さんがフォーミュラ・フォードか何かのモノコックにアルミのフレームを組んで、ステアリングやスプリングを装着したトレーニングマシンを使って。それでトレーニングをしていましたね」と吉田氏。これはステアリングを切ると、頭の横にあるバーがヘルメットを押す形となり、首の筋肉も鍛えられるものだった。こうした努力だけではないが、初年度からファーマンは上手くコースにも順応。シーズン中盤の菅生では初表彰台を獲得している。

翌年、ファーマンは、チャンピオンチームのノバ・エンジニアリングに移籍。森脇基恭社長によると、やはり「ラルフのお父さんと僕が友人で、”良かったら使ってくれない?”と言うのでテストしたら、それなりに良かったので起用しました」とのことだった。ノバでの初年度に乗ったのはローラT96/51。ペドロ・デ・ラ・ロサのセットアップ、つまりは1996年にノルベルト・フォンタナが仕上げたクルマで走り始める。だが、このセットアップはファーマンには合わなかった。「クルマの動きのポイントが、自分の膝中心になって、”オーバーステアでイヤだ”と。そこで簡単に向きを変えられるようになるとドライビングの幅も広くなるんですけど、ペドロとラルフでは全然ライン取りもパワーの開け方違っていました」と森脇氏は振り返る。それでも、シーズン後半に入ると、表彰台2回を含むシングルフィニッシュの常連に育った。
ノバで2年目となる1999年は、シリーズ全体が変革の時を迎える。レイナード、ローラ、Gフォースと3つのコンストラクターがニューシャシーをシリーズに投入。火花を散らすこととなった。だが、多くのチームはレイナードかローラをチョイス。GフォースGF03を使用したのは、輸入代理店だったノバの2台だけ。非常に不利な状況の中での戦いとなった。しかも、実績あるレイナードに対し、Gフォースは空力性能などで劣っている部分もあった。「ドライバーって無い物ねだりで、隣の芝生が青く見えたりするんですけど、そういう時って逆に意志が強くなるんです。Gフォースの時は、世界で1台のクルマを開発しているということで、ラルフも”このクルマを良くしたい”と言ってくれていましたし、対応能力も高かったですね」。もともと英才教育を受けているだけあって、クルマの技術面まで理解していたファーマンは、コツコツと努力を積み重ね、その年の最終戦では自身初優勝。これがGフォースにとっても記念すべき勝利となった。翌2000年には、ギヤボックスの搭載方向を始め、足回りやフロアやウィングなど空力回りが大幅アップデートされたGフォースで走った。他のチームはすべてレイナードに。だが、1年先行しているレイナードに、Gフォースはなかなか追いつくことができず、ファーマンにとって唯一の表彰台となったのは、またも相性のいい菅生だった。

「速いけど、今はフラストレーションが溜まっていそうだから、ウチで乗せようか」。そんな時、Gフォースで苦労するファーマンに声をかけたのが、中嶋悟監督。その前年、圧倒的な強さでチャンピオンとなった高木虎之介が渡米し、その後継者としてファーマンを起用した。3年ぶりに乗るレイナード。それもチャンピオンチーム。だが、シーズン終盤に入るまで、ファーマンは期待通りの成績を上げることができない。「セットアップも上手くいっていなかったのか、乗り方とシンクロしなくてチグハグでした」と言うのは当時ファーマンを担当した田中耕太郎エンジニア。「”上手く走れない”と、ずっとパソコンの前に座ってPi(データロガー)を見ていたのを覚えています。そこからシーズン終盤に入った頃、何か”掴んだ”と言っていましたね」。その証拠に終盤では2連勝。中嶋企画での2年目に入ると、父のガレージに田中エンジニアが特製のアンチロールバーを幾種か発注。家族のバックアップも受けて、ファーマンは快進撃を見せる。開幕戦鈴鹿に始まり、シーズン10戦中4勝、2位3回。本山哲との一騎打ちを制してF1にステップアップを果たしている。

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