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チャンピオンズ・ストーリー Story 5: 高木 虎之介(2000年)

2020年6月3日

当時流行した肩までかかるような”ロン毛”をなびかせる、足が長くて子鹿のように華奢な男の子。まだ大人の世界に馴染んでおらず、社交的に自己アピールすることもなかった無口な少年という印象を周囲に持たれていたのが、全日本F3にデビューした頃の高木虎之介だった。静岡の大地主の長男として、1974年の寅年に生まれ、干支からその名を付けられた虎之介。父・政巳(父は巳年生まれだ)も若い日にはセミプロとしてカローラやスプリンターで数々のビッグレースに出場していた。その父のもとで、子供の頃からレーシングカートに親しみ、高校時代には全日本選手権でタイトルを獲得。18歳で4輪にステップアップし、フォーミュラ・トヨタに参戦すると、翌1993年には19歳にして早くも全日本F3にステップアップした。

珍しい名前もさることながら、その虎之介が一気に注目を浴びることになったのは、1995年。全日本F3000選手権にフル参戦を開始した年のことだ。その頃、まだ国内レース界では、高橋国光や星野一義といった大ベテランのスター選手をはじめ、30代の中堅どころや有力外国人ドライバーが活躍しており、バブル崩壊後ということもあって、なかなか若手がトップカテゴリーにステップアップするのは容易ではなかった。だが、日本人初のF1フルタイムパイロットとして世界での戦いを経験して帰国し、自らのチームを立ち上げた中嶋悟監督が業界の新陳代謝を推し進める。結果、1994年シーズンの終盤には、影山正美や飯田章といった将来を期待される若手に全日本F3000へのスポット参戦の機会が作られた。その時、同時に選ばれたのが、虎之介だった。初めてのF3000は、F3最終戦とのダブルヘッダー。だが、ここで虎之介はいきなり入賞まであと一歩の7位フィニッシュを果たす。続く2戦でも8位、9位とトップ10フィニッシュ。この時の走りがステップアップへとつながった。

黒澤琢弥のチームメイトとしてデビューした虎之介は、序盤こそ目立った成績を出していないが、シーズン中盤に差し掛かると第5戦菅生で初のポール・トゥ・ウィン。この時、2位には山本勝巳、3位には中野信治と日本人若手ドライバーが表彰台を独占し、”世代交代”という印象を世間に与えた。その後、シーズン後半に入ると、中嶋企画はエンジニアを入れ替え、当時経験2年目だった田坂泰啓が虎之介を担当。その田坂にとって、虎之介は「日本にもこんなドライバーがいたんだ」という驚きの存在だった。「他のドライバーは”このコーナーは走り方がこうだから”と積み上げていくけど、トラは全てのコーナーを全開で走ろうとしていた。”全部全開で行ければ速いだろう”という考え方で、ベースが違いました。まあ、現実的に全コーナー全開は不可能だから、そこから仕方なくアクセルを戻すんですけど。ただ、クルマに対しても”これだとリヤが出るから全開で行けない”とか、”曲がらないから、コーナーの中で待っているんだよ。クイっと曲がれるように何とかして。待っているのが勿体ない”という風にコメントしてくれるんです。僕としてはすごく分かりやすかったですね」。そして、この年、特に虎之介の名を一躍轟かせることになったのが、第8戦富士。予選5番手からスタートした虎之介は、次々に前を行くドライバーたちを捉えてポジションアップ。最後には、富士で常勝の日本一速い男・星野一義をメインストレートでオーバーテイクし、シリーズ3勝目を挙げた。このオーバーテイクを可能にしたのは、ギヤ比の違い。その頃、多くのドライバーはスタートのためにショート目の1速を組み込み、決勝レース中は2速から5速で走っていたが、虎之介は全体的にギヤ比をロング目に組み、決勝も1速から5速までをフルに使用していた。これをやると、確かにスタートのトラクションには欠けるが、スタートしてしまえばその後はどんどんスピードが乗る。それを使いこなし、星野を倒したのだ。レース後の星野は記者会見を終えてパドックに下りてくると、”もうF1に行っちゃえよ”と去りゆく虎之介の背中に声をかけた。

その後、F1にステップアップを果たした虎之介だが、その活動はわずか2年。トップチームのシートを得ることは叶わず、2000年には一旦帰国して、再びフォーミュラ・ニッポンに参戦することになる。この年、「トラの発案だったと思うけど、金曜日の走行は全てフルタンクで、決勝を見据えて走っていた。僕もトラも少し成長していた」と田坂が言うように、虎之介は完全に”大人のトップドライバー”になっていた。開幕戦の予選は4番手だったが、そこからF1仕込みの見事なブレーキングなどを駆使して、逆転優勝。続く第2戦ではポール・トゥ・ウィン。第3戦美祢ではトップ快走中にマシントラブルでリタイヤしたが、その後は連勝街道をひた走った。「”負けたくない”というプレッシャーはすごかった。ただ、走り終わった後にクルマをチェックすると、もう少しでトラブルが出るところだったっていうこともすごく多くて、実は綱渡りだった。毎戦、必死だったよ」と田坂エンジニア。最終戦こそ本山哲に優勝をさらわれたが、虎之介は10戦8勝と圧倒的な成績でチャンピオンタイトルをもぎ取り、今度はアメリカへと旅立っていった。

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