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Story 2021:宮田 莉朋「いい走り、いいレースをしていれば、きっと見ている人はいる」

2021年4月21日

カタンカタンと心地よい音を立てて走る電車。単線の線路は、次第に深い山の中に吸い込まれて行く。川を越え林を越え、あたりが開けると、いきなり日本一の山がその雄大な姿を現す。小学生の宮田哲生はひとり、御殿場線に乗って富士スピードウェイに通った。星野一義、中嶋悟、松本恵二、ジェフ・リースがGCで激しく争っていた時代。哲生は、父が経営するカーオーディオの商社に送られてくる招待券で、スタンドからワクワクした気持ちを抱え、迫力の走りを見守っていた。サーキットだけでなく、TVや雑誌のレース情報にも夢中になる哲生。中でも1985年、トムスが初めて本戦に出場し、12位完走を果たしたル・マン24時間レースは、今でも心に残る1戦だ。そして、この時ドライバーとして名を連ねていた中嶋悟が哲生のヒーローだった。
 
それから10数年。外資系企業の会社員となった哲生は、父となる。高校時代に出会った妻・恭子はやはりレース好き、バイク好きのアクティブな女性。哲生と結婚した頃は、音大を出てピアノの講師をしていた。音楽をかけるとお腹の中でリズムに乗って元気に動き回る我が子。恭子がフィアットを好きだったこともあり、2人は生まれてきた我が子に莉朋という名前をつけた。リトモはイタリア語で”リズム”。また、フィアットにもリトモというモデルがあったからだ。
 
しかし、幼稚園に通うようになると、莉朋はたびたび問題行動を起こすようになる。自分の席にじっと座っていることができなかったり、教室から脱走したり。哲生と恭子の元には園や同級生の両親から苦情の電話もかかってきたという。そこで、専門の病院に連れて行くと、莉朋は今で言う自閉症スペクトラムと診断される。哲生は、”ある意味、自分の専門分野として知っていたので診断にショックは受けず、必ずその子なりに得意なことがあると前向きに捉えていた”と振り返る。だが、実際のところ、両親の悩みはいかばかりだったか。
ちょうど同じ頃、恭子の発案もあり、莉朋はレーシングカートに出会う。最初に体験試乗で出かけたのは、中井インターサーキット。ここはアップダウンの多いコースで、「最初は特に下り坂に恐怖を覚えた」と莉朋は言うが、とにかく初めてのカートは楽しくて楽しくて仕方がなかったそうだ。その帰り道、両親は莉朋を連れ、冷やかし半分で厚木のカートショップ、モリシタレーシングに寄り道。そこでは、嬉しい驚きが哲生と恭子を待っていた。店主のカートについての説明を真剣な眼差しでじっと聞き入る莉朋の姿。幼稚園で見せる落ち着きのなさなど皆無だった。この時、両親は、莉朋にカートを始めさせることを即決。すぐにカートやレーシングギアを買い揃えた。だが、持ち帰った初めてのフルフェイスヘルメットを莉朋は怖がる。ようやくヘルメットを被ることができたのは2週間後。こうしたひとつひとつの小さく、同時に大きな問題を家族は3人で乗り越えてきた。

2019年SFルーキーテストに参加した宮田莉朋
 
莉朋が小学校に入る頃になると、哲生は勤務先を辞して、ISOの審査委員として会社を立ち上げる。少しずつカートで能力を発揮し始めた莉朋。その活動を支えていくには、会社員の給料ではやっていけない。自身、幼い頃からレースを見てきた哲生は、モータースポーツにどれだけ資金が必要かと言うことを理解していた。かたや莉朋は週末、大井松田や新東京サーキットなど、首都圏のカート場で練習を積む。サーキットごとの選手権に参加することはせず、ひたすら腕を磨いた。哲生が会社を軌道に乗せるため、仕事に忙殺されていた間は、主に恭子が莉朋のカートの面倒を見た。専属のメカニックを雇うまでの資金はなく、両親は自分たちでカートの整備を勉強。恭子もセットアップシートを作り、自らの手で整備を行っていたのだ。そして、莉朋は2008年に、本格的なレースデビュー。東日本ジュニアカート・コマー60エキスパートクラスでシリーズ3位となったのが、初年度の戦績だ。そこから地方選手権にステップアップするまでは、ずっと家族でのレース活動。莉朋も現場でエンジンの積み替えをしたり、家に帰ってから父とガレージでカートを全てバラして組み直したり。整備作業に対して、少しでも手を抜くと叱責が飛んだ。
予算面でも、両親は莉朋に厳しかった。哲生は、毎年の活動を前に、莉朋にエクセルで予算書を作らせる。「少しでも安い金額にしておかないと、レースをやらせてもらえなくなるかも知れない」と思った莉朋が過小申告すると、後から哲生が実際に掛かった金額と比較し、「なぜこの予算になったんだ」と叱る。レース自体に関しても、「なぜ一発でオーバーテイクを決めないのか」など、とにかくスパルタ式の熱血指導だった。それでも、莉朋は全くイヤにならなかった。カート場にいる時、レース関係の人たちと話している時、「ここでは自分が自分らしくいられる」と感じていたからだ。学校には相変わらず馴染めず、主要な教科は別室での個別授業。でも、サーキットは自分の居場所だった。チームの先輩である高星明誠らとの交流の中で、次第に対人関係も上手に築けるようになって行った。レースが莉朋の学校だった。
 
そんな莉朋が小学6年生の時、”ウチのチームに入らないか”と声をかけてきたのは、元F1ドライバーの高木虎之介。この頃、莉朋はタカギ・プランニングが輸入代理店をしていたカートフレームを使用しており、虎之介も莉朋の走りを見ていた。「成績が出ないとセットアップに文句を言ったり、道具のせいにする子が多いけど、莉朋は物に文句を言うのではなく、とにかく自分の走りを良くすることに集中していたから」というのが、声をかけた理由だと虎之介は言う。その後、虎之介は冗談半分で、哲生と莉朋に対して”今年の残りのレースで全部勝ったら”というチーム入りの条件をつけた。莉朋はそれを真に受け、残る7レースで全戦全勝。こうして虎之介のチームに入ると、その援助で2012年には地方選手権FS125クラスに参戦。翌年からは全日本選手権にステップアップし、2014年には虎之介から”お前の好きな体制を作ってやる”と言われて、希望通りのシャシーとタイヤを手に入れ、チャンピオンを獲得した。シーズン前、「この体制でチャンピオンを獲ります。獲れなかったら引退します」とまで宣言して臨んだシーズン。とても哲生の持つ予算だけでは走らせてやれなかった全日本。そこで莉朋は結果を出した。
 
同じ年の夏、15歳になった莉朋はFTRSを受講。ここでも誰よりも早く走った。だが、スカラシップは不合格に終わる。理由は誕生日。この時、合格した小高一斗は莉朋と同じ年の4月生まれで、翌年すぐに限定A級ライセンスを取得してFIA-F4に参加することが可能だった。対する莉朋は8月生まれ。たとえ合格したとしても、シーズン中盤からしか参戦ができない。”そんな理由で!?”と不満顔だったのは虎之介。そこで虎之介は父・政己の代から世話になっているRS芹沢でジュニアフォーミュラのクルマを仕立てもらい、練習のため、岡山で莉朋を走らせた。同時に、平川亮の父が主宰するRSSスカラシップのドライバーに推薦。シリーズ後半戦には、FIA-F4にデビューさせている。同年、再度受講したFTRSでスカラシップを獲得すると、2016年、莉朋はFIA-F4にフル参戦。フル参戦初年度にしてチャンピオンを獲得した。同時に、全日本カートのKFクラスでも再びチャンピオンを獲得。なかなかない形でのWタイトルを決めた。

2017年全日本F3参戦の莉朋、写真右は坪井翔(写真:©SFLA)
 
そして、2017年には全日本F3にステップアップ。同時にもう1年FIA F4を戦った。そこからF3は3年間戦うことになるが、最初の2年間はとにかく難しいことの連続だった。当時のチームメイトであり、エースドライバーだったのは坪井翔。クルマのセットアップを担当するのも坪井だった。莉朋はそれに合わせる形となるが、ドライビングスタイルの違いから、なかなか速く走ることができなかった。師匠・虎之介の教えは、”誰よりも奥までブレーキで突っ込んで、そこで曲げる”。実際には不可能なのだが、”全コーナー全開”というのが、現役時代の虎之介が目指した走り方。つまりセオリー通りの走り方ではなく、これまでの限界を超えるということなのだが、莉朋もその教示に従って走っていた。その走りと当時のクルマが合わなかったということだろう。ようやく莉朋が自分好みのクルマで走ることなったのは3年目。開幕前テストから好調で、周囲からは『チャンピオン獲得は当然』と見られていた。そこに現れた意外な伏兵がサッシャ・フェネストラズ。この年からB-Max Racingとコラボレーションしたドイツのモトパークは、強力なクルマ作りをし、フェネストラズをバックアップした。それだけでなく、技術規則の解釈についてもヨーロッパと日本の違いを指摘し、莉朋の車輌に抗議を提出。シーズン中、莉朋は2度、再車検で失格となり、大きなポイントを喪失した。それも響いてランキング2位。「これでトヨタをクビになるかも知れない」と失意を味わった。それでもレースを諦めたくない。もう他の道は考えられない。莉朋は他のチームに話を聞きに行ったり、ライバルでもあり友人でもあるフェネストラズから海外のカテゴリーについての情報を教えてもらったり。もしTDPから外されたとしても、自分で自分の道を切り開く覚悟を決めていた。「いい走り、いいレースをしていれば、きっと見ている人はいる」。これも虎之介から学んだことだ。その後、スーパーGTの最終戦を迎えた頃には、翌年GT500へステップアップできることを聞かされ、ホッと一息。年末にはスーパーフォーミュラのルーキーテストにも召集された。年が開けると、フォーミュラでのステップアップは叶わないと知らされたが、SFLに乗るチャンスがトヨタから与えられた。そのSFLでは、ニュータイヤの時にアンダーステアが出る症状が直らず、阪口晴南にしばしばPPを奪われる。それでも、レースでは巻き返して優勝。莉朋は見事チャンピオンを獲得してみせた。それと同時に、中嶋一貴の代役として、スーパーフォーミュラにもスポット参戦。初参戦の岡山で、フロントロウを獲得するという鮮烈なデビューを果たしている。

2019年F3ランキング2位、左はチャンピオンのS・フェネストラズ(写真:©SFLA)
 
そして、今年はいよいよフル参戦。「去年のデビュー戦の予選が良過ぎて、それよりも悪かったらどうしようという不安の方が強いです」とのことだったが、開幕戦・富士では Q3進出を果たして6番手グリッドを獲得。相変わらずの速さを見せた。師匠・虎之介は”PPじゃなきゃダメだよ。もしホンダのエンジンが速いんだったら、少なくとも同じトヨタエンジンの中で1番じゃなきゃ”と手厳しいが、愛弟子のレースを常に気にしている。
今年、そして将来、莉朋はどんなドライバーになるだろう。”まずは今のカテゴリーで結果を出すことに集中して欲しい”という父、哲生。だが、1985年のレースを見て、自分が憧れたル・マンで、いつか莉朋が走ってくれたらという気持ちもある。カート時代に世界戦で走った莉朋も、視線の先には世界がある。ヨーロッパの同世代のライバルたちは、すでに世界で活躍している。”自分も”という思いは強い。そのためにも、まずはスーパーフォーミュラで結果が欲しい。きっとその道の先で、未来の扉は開く時を待っているのだろう。

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