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Story 2021:松下 信治 夢を追い続けて・・

2021年6月15日

もうすぐ夏が来る。今はまだ梅雨のどんよりした曇り空の下、青や白、ピンクの紫陽花が水滴に濡れそぼっているけれど。あとひと月もすれば、太平洋高気圧がこの島の上空に大きく張り出して太陽光線は強さを増し、空には大きな入道雲が、地面には濃い影が浮かぶ。向日葵の茎がぐんぐん伸びて、大きな黄色い花を咲かせる頃、少年たちは半袖、半ズボンのまま全力で野原へと駆け出していくーーー。
サーキットのピットガレージの中で、時に人を寄せ付けないような、取っつきにくい雰囲気を漂わせている松下信治。苦虫を噛み潰しているような表情を見せることもある。だが、実際の松下は、まるで虫取りに駆け出していく子供のように、無邪気で純粋、いつもやる気満々。心の扉は全開で、人懐こくもある。大好きなレースを楽しく続けたい。”仕事としてのレース”だけではなく、チャンスがあればどんどん新しいことにチャレンジしたい。これまで誰も踏み込んだことのない森でも、怯えることなく、後ろを振り返ることなく、たった一人でずんずんと分け入って進んでいくような向こう見ずの勇気。松下は、そんな勇気を心に宿した”男の子”だ。

父はボクシング、母はフィギュアスケート。青春時代、スポーツに打ち込んだ両親にとって、信治は4番目にして初めての男の子として埼玉で生まれた。4歳上の姉、2歳上の姉、そして双子の姉と、3人の姉を持つ信治は、物心つくかつかないかという頃から、クルマが大好き。父はクルマにもレースにも全く興味を持っていなかったが、”息子がそんなに好きなら”と、地元のラジオ、ナック・ファイブで紹介されていた情報をもとに、わずか4歳の信治を『クイック羽生』という最寄りのカート場へと連れて行った。まだルールも何も分かっていなかった信治は、「とにかく速く走ればいいんでしょ」とコース外の芝を突っ切って周回。破天荒な走りでタイムを稼いでいたが、大喜びだった。そこで、父はすぐ信治にカートを買ってやり、2回目からは自分のカートで走行開始。幼稚園への通園を放棄して、信治は毎日のようにクイック羽生に通った。ちなみに、当時そのコースの先輩カーターで、最速だったのが野尻智紀。今でも信治が”トモキ”と呼び、「何でもバレている(笑)」という幼馴染だ。

さて、カートを始めると間もなく、父は信治を連れて、鈴鹿のF1日本GPも観戦。そこで初めてF1の速さを目にした信治は、あっという間に虜になり、将来の夢はF1ドライバーとなった。当時、憧れたのは、フェラーリのミハエル・シューマッハ。カート時代には、そのシューマッハのレプリカスーツを着て走っていた時もある。初観戦から何年か後には、知り合いからもらったパドックパスを持ち、家族全員で再び鈴鹿へ行ったのだが、信治は自らのレプリカスーツを着てフェラーリのピット裏に立っていた。その信治に、当時のテクニカル・ディレクター、ロス・ブラウンが「子供がマールボロのロゴマークを付けるのは良くないよ」と話しかけたという。フェラーリのピットボックスの中に招き入れられ、ロゴを隠すようにスタッフが細工してくれたのは、いい思い出だ。

信治は、小学校に上がると、秋ヶ瀬サーキットに通うようになる。そこで出会ったのが、佐々木大樹兄弟や大津弘樹。信治の双子の姉、優美もそこに加わって、夜までカートで走り回っていた。走り終わったら、カートの面倒を見るのは父。父は子供たち全員に”自分のやりたいこと、好きなことを好きなようにやれ”と、背中を押す偉大なサポーターで、信治も”思い切り甘やかされた”という。その父とカート活動を続け、2005年には全日本ジュニア選手権にステップアップ。2008年には、オープンマスターズカートARTAチャレンジクラスでタイトルを獲得し、スカラシップを得るなど、活躍を見せる。埼玉の栄北高校に入学すると、学校に直談判して部員1人の”レース部”を立ち上げ、公休扱いで全日本カート選手権に参戦を続けた。また、同時に始めたのが、FJでのスポーツ走行。ちょうど信治が高校に入った頃、リーマンショックが世界経済にダメージを与えたため、トヨタもホンダもF1を撤退してしまったが、復活するとしたらホンダだろうと思い、信治はSRS-F入りを決めていた。そこで、月に2〜3回は鈴鹿に通い、スポーツ走行で練習していたのだ。最近でこそ、スクール入学前からジュニアフォーミュラで練習するのは当たり前のようになっているが、信治の世代では余りそんなカーターは多くなかった。

2014年 全日本F3選手権でチャンピオンを獲得(写真©SFLA)

そして、17歳で入学したSRS-Fでは見事に首席卒業。同じ年、経験を積むために、フォーミュラ・ピロタ・チャイナにも出場して1勝を挙げ、アジアントロフィー2位という成績を残した。そのご褒美として、翌年にはフェラーリ・ドライバー・アカデミーにも参加。憧れのフィオラノでF3初走行をしただけでなく、ファクトリー見学もして、”感激した”。一方、レース活動に関しては、ホンダのスカラシップを選択し、FCJに参戦。同シリーズで2年目のシーズンを戦っていた平川亮と5勝ずつを挙げる激しい戦いとなったが、最終的には信治がタイトルを獲得した。その結果を受けて、翌年は全日本F3にステップアップ。HFDPのドライバーとして、田中弘監督、金石勝智オーナーのもとで走り始める。これが信治にとっては、キャリア最初の試練。FCJと違い、F3ではクルマのセットアップを作り上げていかなければならないが、その頃の信治は何も知らず、「弘さんの言っていることが全く分からなかったんですよ」と振り返る。星野一義、中嶋悟時代から厳しい指導で知られる田中監督には、”褒められたことがなかった”こともあり、メンタル面は非常に鍛えられたという。一方、金石オーナーから言われたのは、「レースは一人でやっているんじゃなくて、チーム全員でやっているんだ」ということ。金石オーナーによると、当時の信治は「よくできる若い子にありがちなんですけど、”オレが、オレが”という感じ。若いから仕方がないんですけど、自分で自分をコントロールできていなかった」。ちょっとした相手の仕草や言葉から、人を敵・味方に分けているような所もあったそうだ。そこで、「そんなことをしていても自分が損するばかりだぞ。自分が”嫌い”と思って接したら、相手からも”嫌い”って思われる。媚は売らなくてもいいけど、チームとしては仲間でもあるんだから、自分の意見ばかり言うのではなく、人の話も聞きなさい」と叱責気味に諭した。レースに対しても同じ。熱くなって自分を見失うこともあった信治に、”冷静になれ”とたびたび指導したという。また、金石オーナーに言われたことで、今でも信治の中に残っているのは、”1レース終わっても、まだもう1レース走れるぐらいの体力をつけろ”ということ。優れた体力があり、1周あたりコンマ1秒速く走れれば、20周で2秒、40周で4秒。レースをトータルで考えれば、それが重要だということだ。その言葉に従い、信治は本格的に身体作りにも取り組み始めた。結果、F3で2年目のシーズンを迎える頃、信治は大きく成長。本人は”余り何も変えていません”と言うが、金石オーナーがコースサイドから見る走りは変わっていた。タイヤをタレさせることなくタイムも速い。田中監督のアドバイスを聞き入れた走りができるようになっていた。そして、年間6勝を挙げると、見事チャンピオンタイトルをもぎ取った。タイトルを決めた最終戦の第1レース後も、田中監督からは「チャンピオンが4位ってどういうことや」と、最後まで褒められなかったのだが、”常に勝ちにこだわる”姿勢はしっかりと信治に伝わっていたはずだ。

アドバイスするHFDP RACING 田中弘監督(写真©SFLA)

このタイトル獲得を機に、信治の行く先は欧州に向かう。年末のテストを経て、2015年にはARTのドライバーに抜擢。GP2シリーズへの参戦を開始することになった。初めて親元を離れての一人暮らしをすることになったのは、チームの本拠地からそう遠くないパリ。それまで料理はおろか洗濯すら自分でしたことがなかった信治。もちろんフランス語もサッパリだったが、最初の1ヶ月で生活には慣れた。シミュレーターテストで訪れたマクラーレンのデータエンジニアから、大学時代の同級生だったというパリに住むイタリア人の不動産会社社長、アルバート・アリーナ氏を紹介され、彼とはすぐに意気投合。なんでも話せる友人もできた。だが、実際にGP2に参戦を開始すると、そのレベルの高さを感じることに。チームメイトは、GP2で2年目のシーズンを迎え、その年にチャンピオンを獲得することになるストフェル・バンドーン。まずはそのチームメイトを倒さなければならないが、信治にとってはどのコースも初めて。クルマやタイヤも初めてなら、フランス人と仕事をするのも初めてと、初めて尽くし。しかも、GP2は、レースウィークの練習走行時間が30分と非常に短い中、結果を求められる。それこそ滑り出しはなかなか好結果を出せなかった。初表彰台はシーズンの3分の1を消化したレッドブルリンク。シーズンを折り返す頃には、ハンガロリンクで小林可夢偉以来2人目の日本人ウィナーとなったが、シーズン全体を通して安定した成績を挙げるには至らなかったと言っていいだろう。だが、翌2016年になるとマクラーレン・ホンダの開発ドライバーとなり、GP2での成績も上向き始める。もちろん、うまく行くことばかりではなかった。だが、常に上位争いに加わるような存在へと成長。GP2がFIA-F2と名を変えた3年目には、2勝を含む表彰台を4回獲得し、シリーズランキングも6位で1年を締めくくった。ただし、3年やってタイトルは獲れていない。当時の山本雅史モータースポーツ部長からは、シーズン終盤になって、日本に戻ることになったと告げられた。そして2018年、信治は全日本スーパーフォーミュラに戦いの場を移すことになったが、スーパーフォーミュラはスーパーフォーミュラで、経験豊富なドライバーが多く、GP2/F2とは別の意味でレベルが高かった。その中で、ルーキーとは言え、”絶対に負けない”と臨んだシーズン。信治は予選などで驚きの速さをたびたび見せる。その一方、”もう一度ヨーロッパで戦いたい”という気持ちも抱えていた。レースとレースのインターバルには渡英し、マクラーレンの今井弘エンジニアや他の友人の家に長期滞在。英語にもさらに磨きをかけた。山本部長にも、”戻りたい”という強い意志を伝えて了承を得る。またFCJ時代から支えてくれたスポンサーをはじめとする多くのサポートを短期間で得ることができ、信治は2019年、再びF2に戻ることに成功する。この年、所属したのはイギリスのカーリン・モータースポーツ。ここでもシーズン序盤は苦戦したが、中盤に入る頃には上位を争う存在になり、2勝を挙げた。表彰台には5回上がり、ランキングでは再び6位となる。

2018年DOCOMO TEAM DANDELION RACINGからSFフル参戦

翌2020年も海外でのレース活動を諦めきれない信治は、スクール時代からずっと世話になってきたホンダに別れを告げる決意を固めた。信治をバックアップしたのは、多くのスポンサー企業と、パリで友人になったアリーナ氏。すでに信治にとって親友となっていたアリーナ氏は、ヨーロッパでのスポンサー探しをしてくれただけでなく、チームとの交渉も一手に引き受け、MPスポーツとの話をまとめてくれた。彼がいなければ、自力でヨーロッパのシートを得ることはできなかったかも知れない。そして、信治はイタリアに拠点を移して戦い始める。MPはオランダのチームだが、毎年のようにスタッフが入れ代わり、戦力的にも安定はしていなかった。だが、信治はチームと協力してパフォーマンスを上げていき、シーズン半ばのカタロニアではオーバーテイクショーを展開して優勝。ところが、シーズン後半に入ったムジェロ戦を最後に帰国を余儀なくされた。これはスパ戦での大きなクラッシュに起因するもの。持ち込んだ自己資金は1年間を戦うためのものだったが、エンジンやミッションケースなどを含むクラッシュフィーを支払うと、予算を大きく超えてしまう。その結果、残りのシーズンを戦うことができなくなってしまったのだ。シーズンを全うできなかった悔しさはある。ただ、その一方、信治の心持ちはある意味スッキリしていた。”やりたいと思った挑戦を精一杯やった”。そこに後悔はなかった。

イタリアの部屋を引き払って日本に戻った信治。予定は何も立てていなかった。だが、回りが信治を放っておかない。怪我での欠場を余儀なくされた高木真一の代役として、ARTAからはスーパーGT300クラスへの出場オファーが届く。また、日本に戻れなくなっていたセルジオ・セッテ・カマラに代わってのスーパーフォーミュラへの出場オファーもBUZZ Racing with B-Maxから届いた。これを受けて、信治は再び日本のレース界で走り始めたが、特にスーパーフォーミュラでは、最終戦で3位表彰台に立つなど、その実力を如何なく発揮し存在感を見せつけた。

松下のSF復帰に尽力した組田龍司氏
B-Max Racing Teamの監督を務める本山哲

そして今年。信治は日産陣営入りして、スーパーGT500クラスにチーム・インパルからデビュー。スーパーフォーミュラにも再びB-Max Racingからの参戦を決めた。この参戦に向けては、多くの関係者の努力が実る形で実現。第2戦から出場を開始すると、第3戦では早くも表彰台を獲得した。その信治の傍らに立つのは、国内トップォーミュラで4回のタイトルを獲得しているレジェンド、本山哲監督。信治は「本山さんが僕のそばにいてくれるのが奇跡」だと言う。信治からのたっての希望で、本山は信治の走りや態度に事細かくアドバイスを行なっている。”ブレーキはもっとこう踏んだ方がいい”、”ライン取りはこうした方がいい”。また、ミスしたメカニックに対して怒りを露わにしそうになる信治には、”そういう言い方は良くない。もっとこういう言い方をしないと上手く行かない”と注意する。セッション中、セットアップを進めるために無駄のない時間の使い方を意識させる。普通、F1にまで手が届きかけたレベルのドライバーにこうしたアドバイスを行うことはないだろうし、ドライバー側としても簡単には受け入れ難いだろう。だが、そのアドバイスが信治にとっては宝物。「本山さんに言われたことは全部試すようにしていますが、10個のうち1つでもタイムアップに繋がったら、すごいことじゃないですか?」と瞳を輝かせる信治。もっともっと色々なこと吸収して、もっともっと速くて強いドライバーになりたい。もちろん国内のトップカテゴリーで結果を出さなければならない。その一方、インディでも、ル・マンでも、フォーミュラEでもいい。とにかく世界的なレースには全部出てみたいし、世界的に活躍できるドライバーになりたい。これから先の自分を想像すると、ワクワクして腕まくりをしたいほど。楽しみで仕方がない。今、信治の視界はそれほど澄み切っている。

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