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Story 2021:阪口 晴南 「まだまだ甘かったし、浅かった」

2021年5月11日

“羽を曳くが如く”。日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が没後、白鳥に姿を変えて舞い降り、その後飛び立ったとされる様子から名付けられた、大阪府・羽曳野市。多くの古墳が点在しており、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の一部ともなっている。神話時代から人々の暮らしが脈々と紡がれてきた悠久の地。その歴史深い街で、阪口家の親子3代に渡るモータースポーツの物語は奏でられてきた。
その源流は今を遡ること100年余り。阪口家の祖先が大阪市で鉄板抜物工場を立ち上げたことに始まる。戦後、2代目の鉄男が家業を大きくしていったことで、阪口家は艶福家となり、羽曳野に大きな地所を持つようになった。その鉄男の4男が顯。当時の資産家の子息らしく、モータースポーツに興味を持ち、バイクレースで頭角を表してプロとなった顯は、1970年代初頭から4輪に転向すると、FL500やFJ1300で活躍した。同じレースで戦っていたのは、故・片山義美や鮒子田寛、長谷見昌弘、高橋晴邦といった往年の名レーサーたちだ。しかし、1973年にオイルショックが日本を直撃。顯は同年いっぱいでの引退を決意した。

その後、羽曳野でカーショップを開いた顯には2人の息子が誕生する。長男の良平、次男の晃平。2人は成長していくにつれ、やはりレースと関わりを持つようになる。”コントロール能力を身につけるため”と、顯は良平に子供時代からモトクロスをやらせたが、良平がやりたいと望んだのはレーシングカート。だが、顯が”高校に合格したら”という条件を良平に課した。そのため、ようやくカートに乗り始めたのは、高校1年の時。良平が道上龍や立川祐路らと同世代であることを考えると、当時としても決して早いデビューではなかった。そして、兄に続くように、弟の晃平も高校に入学するとカートを開始、全日本選手権まで参戦している。晃平は、その後もF4やシビックレースなどに参戦。だが、何に乗っても”お兄には勝てない”。ドライバーとしては限界を感じていた。一方、晃平は子供の頃から手先が器用で機械いじりが大好きだった。家にある機械をバラしたり組んだり。レースを始めてからも、高校から帰ると、実家が経営するカートショップでお客さんのカートを整備。それが晃平にとっては至福の時だったという。

2016年 全日本F3選手権に16歳でデビュー(写真:©SFLA)

そんな晃平は、21歳という若さで結婚。翌1999年に誕生したのが、一人息子の晴南だ。もちろんその名は、アイルトン・セナから取られたものだが、生まれた息子を見て、晃平は”息子と一緒にカートをやりたいな”という夢を抱いた。晴南自身、小さい頃からクルマのおもちゃが好きで、ミニカーの名前もすぐに記憶してしまうほど。足で漕いで遊ぶクルマもお気に入りだった。そこで、晃平は”先にエンジンをかけておく”など、怖がらせないよう周到に準備をして、2歳6ヶ月という小さな晴南をカートに乗せる。もちろん最初は晃平がカートに繋げたリードを持って、ガイドしながら。親戚縁者がまとまって住んでいる羽曳野の土地の中には阪口家の私道があり、そこで晴南を走らせたりもした。こうして物心つく前から、晴南にとってはレースが生活の一部となっていった。カートに対して、好き、嫌いという感情もこの時はまだ持っていなかったかも知れない。
だが、乗り始めてしばらくすると、晴南にとってカートは楽しいものとなっていく。自分自身が速くなっていくという楽しさもあったが、関西カートランドや堺カートランドといったサーキットで走る中、同世代の子供達と関わりが出来始めたからだ。中でも、真っ先に友達になったのは牧野任祐。牧野の方が2歳年上だが、2人は速さを競い合うようになっていった。さらに、その仲間の輪にいたのが福住仁嶺。晴南にとっては、今でも”タダスケ”、”ニレイ”と呼ぶ幼馴染だ。彼らだけでなく、少し年長の子供達と競い、その中でも速さを見せていた晴南は、小学校に入ると数々のタイトルを欲しいままにしていく。10歳の時には、鈴鹿サーキットレーシングスクール・カートに入学し、受講生最年少ながら卒業記念のレースでは元F1ドライバーの中野信治を倒して優勝するなど、非凡な速さを見せた。そのキャリアは、まさに”飛び級”と言えるもの。全日本選手権に参戦できる年齢に達しないうちに全日本ジュニアでタイトルを獲得してしまうなど、ステップアップを待たなければならない年もあったほどだ。その活動を常に支えてきたのは、父・晃平。晃平は晴南のカートのメンテナンスを一手に担っていただけでなく、晴南の将来に渡る長い活動を見据え、資金の工面にも奔走した。晃平自身のレース活動も支えてくれた父の実家、今では叔父たちが経営しているサムテック株式会社に援助を申し込んだだけでなく、数々のパーソナルスポンサーを獲得。また、道上龍の実家でもあるトレンタ・クアトロを運営している龍の弟・学からワークスカーターとしてシャシー提供を受けていただけでなく、ダンロップの開発ドライバーを任されるなど、晴南には走ることにだけ集中できる環境が常に整えられていた。
 
一方、カート活動だけでなく、晴南は中学生になると岡山国際サーキットで4輪にも乗り始める。その頃になると、カートの先に、スクールを経て4輪のプロドライバーになれる道があるということを理解していた。そして、中学3年生の時に、SRS-Fに入学。同期入学したのは、少し回り道をしてきた”タダスケ”だ。その年、牧野はFIA F4で”怪物”と言われる活躍をして注目されており、SRS-Fでも晴南はなかなか追いつけなかった。初めて走る鈴鹿の本コースは広く、どこを走ればいいかも分からない。スピード域の高さも最初は怖かった。だが、”今でもアドバイスして欲しいほど(笑)”という野尻智紀の指導を受け、次第に頭角を現していく。卒業レースでは、”タダスケ”を下して優勝。首席卒業を果たし、スカラシップを獲得した。だが、ホンダサイドから提示されたのはFIA F4へのフル参戦。「どうしてタダスケを下したのに、僕はF3に乗れないんですか」。牧野はすでにF3にデビューすることが決まっていた。納得が行かない晴南。今では、”だいぶワガママを言いました”と振り返るが、その結果、2016年はFIA F4と全日本F3の両シリーズに参戦することになった。FIA F4 では今や珍しくないが、全日本F3に16歳でデビューするというのは、やはり”飛び級”並みの早さだ。F4とF3をそれぞれ1年で卒業してヨーロッパのGP3に旅立っていった”ニレイ”のように、自らも全てのカテゴリーを1年で卒業し、海外で羽を広げる日を晴南は目標としていた。

ピット前で話し込む晴南と福住仁嶺

ところが、全日本F3にステップアップした晴南は、壁にブチ当る。HFDPレーシングから大津弘樹との2台体制で参戦した初年度は、終盤戦に入ってようやく初表彰台に上がったが、シリーズ9位。1台体制となり、エンジンが変更となった2年目は、成績も少し上向いたがシリーズ6位。そして3年目はHFDPレーシングが消滅し、戸田レーシングに移籍する。ここでようやく表彰台の常連と呼べるところまで漕ぎ着けた。しかし3年目ということで、晴南は勝てないプレッシャーも感じていた。思うような成績を出せない悩みは深く、「このままだったらいつクビを宣告されるか分からない」。少しでも自分のパフォーマンス、存在感を示さなければ。周囲の協力を取り付けて、全日本スーパーフォーミュラにスポット参戦したのもそのためだ。年の終わりには、好成績は望めないと分かっていたものの、自費でマカオGPにも参戦した。何とか道をつなげたかった。しかし、ホンダからは、「ステップアップさせるかGT500に乗せるか検討している」という話だったのが、晩秋になって「GT300になるかも知れない」と変わっていき、年末には「まだ調整中だから少し待っていて欲しい」と濁されるようになる。言われた通りに待っていても電話は来ない。年が明けて晴南は自分からホンダに連絡を取った。そこで聞かされたのは、「残念だけど今年のシートはない」という宣告。”年が明けてからそんなこと言われても…”。一瞬、目の前が真っ暗になった。父の晃平も「可哀想で見ていられなかった」と言う。

2020年SFLで優勝 隣りはマスタークラス優勝の組田龍司(DRAGON)(写真:©SFLA)

だが、この頃、すでに叔父・良平が動いていた。長くレーシングドライバーをしている良平の耳には、噂も含めて色々な情報が入ってくる。その中には”晴南がホンダをクビになるらしい”というものもあったからだ。良平はインギングの卜部治久がオーナーを務めるプロジェクトμの仕事をしていた関係から、卜部に相談を持ちかけた。”ウチの晴南、乗るものがないんです”と。ちょうど前年から、インギングと岡山トヨペットの社長である末長一範は、コラボレーションチームとしてK-Tunes racingを立ち上げ、スーパーGTの300クラスで戦い始めていた。その初年度にドライバーを務めた中山雄一がGT500にステップアップすることもあり、チームは新田守男の新たな相棒を探している所だった。そこで、良平は1月中旬のオートサロンの際、晴南を連れて卜部と末長に挨拶に行った。卜部の元には、当然のように、他からも売り込みがあったが、これでショッピングリストに名前が乗った。卜部は、そこから多くの関係者の話を聞き、誰を乗せようかという検討に入る。そして、最終的に選ばれたのが晴南。卜部は本人の印象や回りの情報から「晴南くんは将来日本のトップになるドライバーのひとりだと確信しましたし、宝の原石だと思いました」と言う。そして、「磨き続けなければ宝は輝かないんですよ」と付け加えた。自身の手元で晴南を磨く決定をしたということだ。

こうしてK-Tunesのドライバーとなり、初めて乗車手当をもらってレースをすることになった晴南は、大先輩・新田の影響もあり、大きく視野が広がった。3年間のF3時代はスクールの延長線上にあり、ホンダが整えてくれた環境の中で、”ハンドルを握っている時のことだけ考えていた”。だが、プロというのは、今まで当たり前だと思っていたその環境を整える所から始まる。そこに行き着くまでの過程を大切にしなければいけない。なぜスポンサーやファンの人たちが自分を応援してくれるのか。晴南は、それまで考えなかったようなことを考え、気づかされることがたくさんあった。
同じ年、晴南はトムスからF3に二度スポット参戦。フォーミュラのキャリアを積み上げたい気持ちも持ち続けていた。そこで話をしに行ったのがB-Maxのオーナー、組田龍司だ。卜部には「まず自分から相手のドアをノックしないと、誰も出てきてくれない。出てきてくれたら、そこで初めて話ができる。そして、話をしてから、初めて買ってくれるかどうかが決まるんだよ」と背中を押された。結果、晴南はB-Maxのドライバーとして設立初年度のスーパーフォーミュラ・ライツにフル参戦。全日本カート時代から同い年のライバルとして鎬を削った宮田莉朋と戦った。最終的には莉朋がタイトルを獲得、晴南が2位。この活躍をきっかけに、晴南はいよいよ今年、全日本スーパーフォーミュラにフル参戦を果たした。今の目標は”勝つこと”。そのためには、やらなければならないことが山ほどある。F3時代も、自分で考えられる準備はしていた。だが、”まだまだ甘かったし、浅かった”。それよりも多くを考え、多くを整え、晴南はサーキットへと足を向ける。もちろん現場でも歩みを止めることはない。原動力は、これまでのレース人生を支えてくれた全ての人たちに対する『感謝』。それを形で返すため、晴南は今、これまでなかったほど強く、”勝利に対する執念”をたぎらせている。

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