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Story:タチアナ・カルデロン 「セットアップさえ正しければ女性でもスピードは出せる」
2020年8月29日
艶やかに光る頬、はにかむような笑顔。飾り気なく、誠実な態度。肩まで伸びた髪を揺らしながら、常に穏やかな口調で話すその女性の名は、タチアナ・カルデロン。もしサーキットの外で初めて会ったら、彼女がレーシングドライバーだということには誰も気づかないかも知れない。だが、タチアナは現在、アルファロメオF1チームのテスト&開発を務める歴としたドライバーだ。
南米コロンビアの首都・ボゴタで生まれたタチアナ。7歳年上の姉・パウラ、2歳年下の弟・フェリペ、3人兄弟の真ん中として彼女は育った。両親はボゴタでKIAのディーラーを経営しており、父は元コロンビア大統領の従兄弟、母の実家はセルジオ・アルボレダ大学の創設に携わっている。そういう意味では名門家庭のお嬢さんという側面も持っていると言っていいだろう。
さて、幼少期からスポーツに対しての情熱を持っていたタチアナは、乗馬やテニス、サッカーなど多くのスポーツを嗜んできた。5歳の時には、姉・パウラのお下がりのポケットバイクにも乗り始める。そうしたスポーツの中でもテニスの成績は良く、もしレースに出会わなければ、プロテニス選手を目指すという選択肢も持っていたそうだ。そんな彼女がレンタルカートに乗ったのは、9歳の時。その頃、コロンビアではファン・パブロ・モントーヤの活躍で、F1熱、カート熱が高まっていた。姉・パウラやその友人らとともに訪れたカート場で初めての走行を体験した彼女は、そのスピードと脳内に溢れ出るアドレナリンに魅了され、恋に落ちる。それからは毎日、学校が終わってからカート場に通い詰める日々。週末もせっせとカート場に通った。父を説得して自らのカートを手に入れ、10歳になるとレースにも出場を開始。コロンビア国内で次々と好成績を挙げる。2008年には、女性として初めて「スナップオン=スターズ・オブ・カーティング・ディヴィジョナル・チャンピオンシップ – JICA イースタン・チャンピオンシップ」と「IAME インターナショナル・チャンピオンシップ」の両選手権でタイトルを獲得した。モータースポーツは男性優位の競技ゆえ、当然のようにライバルは男子ばかり。だが、タチアナは「私は小さい頃から何をするにも常に弟と争ってきていたし、コロンビアでは女の子のサッカープレーヤーが足りないから、中学生ぐらいまではサッカーでもいつも戦う相手は男の子だったのよ」ということで、レースでも男女関係なく戦えるということを信じていた。活動を続ける条件として両親から言われたのは唯ひとつ、”学業と両立させること”。タチアナは高校でも常にクラスでトップを争う成績を挙げ、大学進学はせずにレースを続ける道を選んだ。もし高校での成績が振るわなければ、レースを諦め、大学進学をしなければならなかったのだ。
17歳になったタチアナは、2010年になると米国に渡り、シングルシーターのキャリアを積み始める。米国にはカートレースで幾度も遠征して土地勘があった。また、インディアナポリスに住んだことで、回りには多くのドライバーがいた。彼女にとっては、もちろん初めての一人暮らしだったが、ドライバー仲間と同じスポーツジムに通ってトレーニングしていたこともあり、それほど寂しさを感じることはなかったという。出場していたスター・マツダ・チャンピオンシップでも次第に頭角を現し始める。初年度は7位が最高位だったが、2年目のシーズンには表彰台を2度獲得。シリーズ6位という成績を挙げている。その先には、インディ・ライツに乗るというチャンスがあった。丁度、ダニカ・パトリックがインディからNASCARに転校するタイミングだったこともあり、次のスター候補生としてタチアナに声がかかった。だが、それと同じ頃、ラスベガスの最終戦でダン・ウェルドンの死亡事故が発生する。その事故を見て、父はタチアナに「オーバルでレースをすることは許さない」と、米国でのレース活動を禁じた。
そのため、タチアナは渡欧を決意。子供の頃から、夢はモントーヤのように、F1にステップアップすることだったため、ヨーロッパ行きに対して迷いはなかった。2011年のシーズン終盤にもスポット参戦したヨーロピアンF3オープン。2012年にはエミリオ・ディ・ヴィロタ・モータースポーツからレギュラー出場することになったため、チームの本拠地に近いスペイン・マドリッドへと移住する。知り合いも友達もいない町での一人暮らし。この時はさすがにホームシックになった。スカイプなどを使って、両親や姉と話したりはするものの、実際にはなかなか会えない。実家にいる頃は、母が身の回りの面倒をすべて見てくれていたため、家事もそれほど得意ではない。しかも、ヨーロッパでのレース環境は、彼女がそれまで経験してきたものとはまた違っていた。まず”女の子”というだけで”男の子よりも遅いだろう”という先入観を持たれる。同じチームの中でも、男性選手のセットアップへのリクエストが優先され、タチアナはそれと同じようにセットアップしたクルマを渡されるだけ。何の意見も聞かれない。「男の子の中には、成績が出なかった時、すぐに”クルマが悪かったからだ”ってクルマのせいにする人もいるけど、女の子はクルマに文句を言ってはダメなのよ」と彼女は当時のことを振り返る。また、レース初体験という新人のエンジニアをあてがわれることも当たり前。もちろん、それに対して文句を言うことも許されなかった。「だから、走ることだけではなく、私は技術的なこともコーチをつけてものすごく勉強したわ。私の運転スタイルを生かすためには、どういうクルマのセットアップが必要かということを理解して、それをエンジニアに伝えるために。確かに、高校生以上になると男性と女性では体力の差が出てくる。だけど、セットアップさえ正しければ、女性でもスピードは出せる。例えばブレーキ。男の子たちはものすごく硬いブレーキペダルのフィーリングを好むけど、私はブレーキのマスターシリンダーを小さめにして、もっとペダルをコントロールしながら走る方が速くコーナーを回れる。そういう違いを説明して、希望通りにしてもらえるように持っていく必要があるの。もちろん、成績が出ない時には、自分を疑いそうになることもあった。だから、メンタルコーチにもついてもらっているの。精神面でのトレーニングも積んで、自信を失わないように努めてきているのよ」。
当然のことだが、サーキット外では肉体的なトレーニングもハードに行なってきた。”男に生まれていれば…”という考えが頭をかすめることがなかったわけではない。だが、その一方で、マーケティング面では女性ドライバーに有利な面があることも理解しているというタチアナ。その中で一歩一歩、道を切り開いてきた彼女は、昨年パワーステアリングのないF2で苦戦し、一時はキャリアの危機に立たされた。去年の終わりには何も乗るものがなく、諦めかけたことも…。だが、年も押し詰まった頃から、チャンスが次々に舞い込み始める。リシャール・ミル・レーシングからのヨーロピアン・ル・マン及びル・マン24時間レース参戦、そしてスーパーフォーミュラへのフル参戦という話だ。彼女のスポンサーに名乗りを上げたバンデロ・テキーラもスーパーフォーミュラへの参戦を望んでいたという。ところが、新しい年を迎えてまもなく、世界は新型コロナウィルスのパンデミックに巻き込まれ、日本国内でもレース活動は大幅な延期を余儀なくされた。3月末に初来日し、富士スピードウェイで2日間のテストに参加して以降、ロックダウンされたマドリッドで、彼女は一人ぼっちで過ごさなければならなかった。その間に、新しいトレーニング機器を入れた部屋はまるでスポーツジムのようになった。そこで特に首の筋肉強化に取り組んだという。スーパーフォーミュラのテストに参加して、首への負荷がとても高いということを体感したからだ。同時に、自宅にはシミュレーターも導入。また、これまで苦手だった料理に挑戦したり、夜にはネットフリックスで映画などを見て過ごした。尊敬するミシェル・オバマの伝記を読み、勇気をもらった。暇な時間を作ってしまうと、今後のことに対する不安がむくむくと頭をもたげてきてしまうからだ。
そんな孤独な時間を過ごした彼女は、周囲の人々の助けもあり、無事にビザを再取得して再来日。PCR検査や自己隔離を経て、今週末、ツインリンクもてぎでデビュー戦に臨む。初めてのコース、5ヶ月ぶりのスーパーフォーミュラ。あるのはディスアドバントージばかりだが、スリーボンド・ドラゴ・コルセは彼女を全面的にバックアップする意気込みだ。「1台体制だからこそ、みんなが私の話を聞いて、クルマのセットアップも私の好みになるように進めてくれている」とテストの段階から語っていたタチアナ。彼女とチームがどんなハーモニーを奏でるのか。最初からトップ争いに絡むことが難しくても、ここから始まる彼らの歩みは見守っていくだけの価値あるドラマとなるだろう。
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