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チャンピオンズ・ストーリー Story 4: トム・コロネル(1999年)
2020年5月23日
大きな体躯に頭頂部が少し薄くなり始めた髪、朗らかな笑顔を見せながら楽しそうにお喋りを続ける青い目の男性。1996年に来日したばかりのトム・コロネルは24歳だった。
「最初に会った時は、陽気でよく喋るし、まさかドライバー本人とは思わず、マネージャーだと思ったんだよね」と、当時コロネルを担当した山田淳エンジニアも振り返るほどで、レーシングドライバー然とはしていなかった。
オランダ出身のコロネルは、レース好きの一家に育った。兄レイモンドもレースをしていただけでなく、トムと双子のティムもレーシングドライバーであることは日本でも有名。この2人のミドルネームを合わせるとアルファ・ロメオになるほどで、父もレースを愛していた。
しかし、トムはモータースポーツの英才教育を受けてきたわけではない。17歳の時に、地元のレーシングスクールに通い、”最も才能あるドライバー”という称号は受けたが、レースデビューはシトロエンAXのワンメイクシリーズだった。ハコのレースで最初のキャリアを積み始めたのだ。シングルシーターに注力しようと決めたのは、21歳の時。ドイツのフォーミュラ・フォードに参戦したのがきっかけだった。そこからジュニア・フォーミュラ、ドイツF3を経て、トムは日本へとやってきた。フォーミュラ・オペル・ロータス時代に彼が所属したアメルスフォートからの推薦だった。
来日した1996年に全日本F3選手権にトムスから参戦するが、当時トムスは一旦使用していたダラーラから、再び自社製シャシーのトムス036Fを使用(1994年に自社製シャシー開発をしていたが、1995年にはダラーラにスイッチ)。開発しながらレースをするという状況だった。「(モノショックを採用した)サスペンションを上手く機能させるのが結構大変だったし、ボディワークも色々変更しましたね。タイヤが摩耗しやすかったり、ストレートが遅かったり、開発には苦労しました」と山田エンジニア。そのクルマを何とか上手く走らせるために、コロネルはタイヤガレージに足を運んでタイヤエンジニアと話し込み、いつも夜遅くまでデータロガーとにらめっこしていたという。その努力が実を結び、シリーズ後半戦に入ると初優勝も果たした。だが、チャンピオンを獲得したのは脇阪寿一。その脇阪は、「トムがダラーラに乗っていたら勝てなかった」と山田に語ったそうだ。そして、翌年、トムスはダラーラに再スイッチ。脇阪のコメントに触発された部分もあったが、自社製シャシーの開発に資金が掛かりすぎることもその理由だった。果たして、来日2年目にダラーラを手にしたコロネルは開幕から連勝街道を突き進む。開催された7レースのうち、6勝を挙げてチャンピオンを獲得。また同年、コロネルは母国・オランダのザンドボールドで開催されたマールボロ・マスターズでも総合優勝を果たす。それまでマスターズにもマカオにも出場したことがなかったトムスだが、コロネルが全てのお膳立てをして、チームとともに海外遠征を果たした。これがヨーロッパレース界でのトムス伝説の始まり。「マスターズでの追い上げは、もうクルマも技も超越していて、スタンドの何万人っていうお客さんが総立ちだった」というレースを展開して、強烈な印象を残した。
翌年、コロネルは中嶋企画初の外国人ドライバーとして、フォーミュラ・ニッポンにステップアップ。すでに26歳と若くはなかったが、その先に見据えるのはF1だった。だが、初年度はライバルチューナーのエンジンに対してパワー不足だった面もあり、なかなか成績を出すことができなかった。「ただ、成績が振るわなくても、いつも前向きに落ち着いて走っていた」と当時コロネルを担当した田中耕太郎エンジニアは振り返る。「トムはいつも”どれだけ冷静にクルマと自分の限界付近で走れるかというのがレーシングドライバーの醍醐味”と言っていましたが、実際冷静に理解してコントロールしていましたし、とにかくメンタルは強かったですね」。
迎えたフォーミュラ・ニッポン2年目は、エンジンチューナーの変更もあり、ライバルと互角のスピードを手に入れる。その結果、開幕戦では初表彰台を獲得。実際に結果が出始めるとその自信は揺るぎないものになった。「予選がPPでなくても、”オレはレースで勝つ”という自信、オーラみたいなものがあった」と田中エンジニア。シーズン後半に入ると、タイトル争いは連覇を狙う本山哲との一騎打ちとなり、最終戦を前にポイントリーダーとなる。運命の最終戦はコロネルが予選 2番手のフロントロウ、本山が3番手のセカンドロウ。コロネルの方が先手を取った。だが、スタートの加速に失敗するコロネル。好スタートを切った本山は、それをアウトからかわそうと1コーナーに入る。その右サイドにコロネルのマシンが接触。2台は揃ってコースアウトし、リタイヤとなった。決して後味のいい幕切れではなかったが、コロネルはチャンピオンを獲得。中嶋企画最強時代の扉を開くと、夢のF1を目指して帰国した。そんなコロネルは根っからのレーサー。同世代のライバルの多くが引退した今も、ツーリングカーでレースに参戦し続け、WTCCやWTCRなどで来日している。