Headline News
チャンピオンズ・ストーリー Story 3: 本山 哲(1998,2001,2003,2005年)
2020年5月13日
1997年のJTCC最終戦、日産の若手ドライバーとして期待され始めていた本山哲は、タイトル争いを演じていた中子修にヘアピンで接触された。これでチャンピオンの目が消えた本山は、1周スロー走行して中子を待つ。そして、100Rで本山が今度は中子を弾き出す…。この日、2人は夕暮れ時までコントロールタワーにいたが、パドックに戻ってくると星野一義(当時は選手)と故・松本恵二が2人を呼びつけた。大先輩たちの仲立ちもあり、中子と本山は握手を交わしたが、すぐに別々の方向へと歩き去った。メディアにとって、これは長く”腫れ物に触るような”事件だった。だが、実際にはプライベートの場で、2人はすぐに仲直り。わだかまりはなかったそうだ。一方、JAFからは本山に対して厳しい罰金措置が取られ、他カテゴリーでの所属チームもシーズン残りのレースでは本山をエントリーさせなかった。一時は「ライセンス剥奪」の可能性も囁かれていたほどだ。
この年、本山はフォーミュラ・ニッポンにデビューして2年目だったが、年齢は26歳。カート時代からライバルだった中野信治はF1にステップアップを果たし、3歳年下の高木虎之介が「次世代のトップドライバー」と大注目される中、本山は”遅れてきた天才”とでもいうべき存在だった。それはF3で6年間も足踏みしたためだ。
本山は、両親が経営していたサーキット秋ヶ瀬で幼少期からポケバイを始め、その後、レーシングカートに転向。全日本カート選手権時代には、年間数百万円をもらって走るプロになっていた。「レースはお金を貰う仕事」という感覚が身についていた本山にとっては、4輪にステップアップしてからも資金を持ち込んでシートを得るという考えはなかった。だからこそ、F3ではシーズンを通して乗れないシーズンもあったほど。バブル崩壊後ということもあって、なかなか恵まれた体制のチームに加入することができなかった。ようやくトップチームの童夢に加入し、シリーズ2位となったのは1995年。これを受けて、翌1996年には鈴木亜久里が立ち上げたFNの新規チーム、FUNAIスーパーアグリに抜擢されることとなった。新規チーム、しかもルーキーということもあって、シーズン序盤は苦しんだ。だが、中盤に入ると初表彰台を獲得。最終戦ではフロントロウも獲得する速さを身につけた。ところが2年目はそこから一転、リタイヤが続き全く結果を出せずにいた。しかも、その年の最後は前述の事件によって、将来も危ぶまれるほどだった。
そこに声をかけたのが、名門チームとして過去に幾度もタイトル争いをしてきたチーム・ルマン。背後では、”このまま本山を終わらせたくない”と考えたニスモからの推薦もあったらしい。いずれにせよ、チーム・ルマンに入った本山はいよいよ本来の才能を開花させる。シリーズ第2戦美祢で初優勝し、第3戦富士でも優勝。最終戦鈴鹿を待たずに初めてのタイトルを決めた。当時、本山を担当したエンジニア、土沼広芳によると「本山はすごくハングリーさがあって、車のセットアップにも熱心だった。ガレージに足を運ぶだけでなく、レースが終わるとメールでレポートを送ってきていたし、サーキットでも言うことが的確で無駄がなかった。僕はそれまでずっと外人とやってきたけど、本山は外人みたいだったし、求めているクルマをイメージしやすかった」と言う。コース上では「ムダにステアリングを切らないし、タイヤを使うのが上手かった」と言う印象が残っているそうだ。
これがチャンピオン伝説の始まり。その後、2000年に恩師星野一義が率いるチーム・インパルに加入すると、2001年、2003年、2005年と3度のタイトルを獲得。国内トップフォーミュラで計4回のチャンピオンになるという快挙を成し遂げた。のちにスポーツカーで世界チャンピオンとなったブノワ・トレルイエやアンドレ・ロッテラー、ロイック・デュバルらを始め、本山を”倒すべき壁”として戦い、敬意を払っているドライバーは国内外に多数。昨年、全日本F3を制したサッシャ・フェネストラズも、「日本でキャリアを積む上で目標にしているのはモトヤマさん」と公言しているほどだ。
通して積み重ねた偉業、ドライバーズタイトル獲得数(4回)、優勝回数(27回)、P.P獲得回数(20回)などの記録は、いまだ誰にも書き換えられていない。